4月4日(日) 復活節第1主日・復活日 イースター礼拝順序

黙  祷
賛  美   325
主の祈り
交読詩編  詩編150篇
祈  祷
聖  書   ルカによる福音書第24章1~12節
使徒信条
説  教  「イエスは復活された」
賛  美   333
聖  餐   81
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 4つの福音書の主イエスの復活の出来事の記事を読み比べると、共通しているのは、イエスの遺体が納められた墓が空であることと、主イエスの復活を最初に知らされたのは女性の弟子たちであることです。一方、他の福音書では、御使いが主イエスの復活を「弟子たちに告げなさい」と命じますが、ルカ福音書にはそれが書かれていません。恐らく彼女たちも弟子であるからでしょう。
 ルカ福音書第8章2~3節には、「マグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ・・・そのほかの婦人たちも・・・自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。
 私は今、要介護4の父と暮らしています。日々の食事、洗濯、出かけるときには持ち物の確認など、父の世話をするようになって、私は人並みの苦労をしているのだと思っています。主イエスと弟子たちの旅の日々の暮らしでも、食事があり、汚れ物は出ます。ガリラヤから従ってきた女性の弟子たちがお世話を引き受けたから、主イエスと弟子たちの宣教の旅が続けられたのでしょう。すべてを献げて奉仕した女性たち。主イエスに対する信仰からくる愛があったからだと思います。
 そのような女性の弟子たちでしたから、十字架で死なれた主イエスのご遺体の処置が十分できなかったことに心残りがあったのでしょう。彼女たちは「週初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)のでした。主イエスを慕い、ガリラヤからずっとお世話をしてきた主イエスのお体に香料を塗ろうと墓に行ったのでした。
 ところが彼女たちが目を上げてみると、「石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」(2~3節)のです。途方にくれたその時、輝く衣を着た二人の人がそばに現れました。恐らく神の御使いでしょう。二人は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)と言いました。御使いは彼女たちをとがめているのです。「あなたたちがしているのは、『生きておられる方を死者の中に捜す』ということですよ」と。さらに「イエスの言葉を思い出しなさい」と語ります。その言葉とは、「人の子〔イエスご自身のこと〕は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(7節)。ルカ福音書だけが、イエスの十字架の死と復活を予告しておられた言葉を、ここで御使いに語らせています。十字架の死と復活は神の御計画であり、神の必然であり、必ず実現しなければならないことでした。それを聞いていたはずなのに、彼女たちはイエスが死者の中にいると思い込んでいたのです。イエスを慕う愛情はありました。しかし、彼女たちは「墓に行った」のでした。
 このことは私たちに問いかけます。「墓」が示すものは何でしょう。過ぎ行くもの、この世のこと、この世の考え、人間のこと。彼女たちが御使いの言葉によって何をしているのかを知らされたように、私たちもそのままでは墓の中にイエスを捜すような者ですが、神の光に照らされて、何をしているのかに気づきます。神は、女性の弟子たちを顧みてくださったように、私たちに主イエスの言葉を思い出させてくださいます。「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(8節)とは、生きておられるイエスの声が心によみがえったことではないでしょうか。福音が心の奥まで入ったら体が動き出します。彼女たちは「墓から」出て行き、向きを変えて、ほかの弟子たちにイエスが復活されたと告げ知らせました。
 主イエスの言葉が語られ、聞かれなければ、思い出すことはできません。礼拝で、生きておられるイエスの声を聞きます。教会はどんなときも御言葉を宣べ伝えます。