4月11日(日) 復活節第2主日 一般礼拝順序
黙 祷
賛 美 57
主の祈り
交読詩編 詩編8篇
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書第24章13~35節
使徒信条
説 教 「心は燃えていた」
賛 美 324
役員任職式
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
コロナ禍のため、先週は2年ぶりのイースター礼拝でした。「イエスは生きておられる。イエスは死に勝ち復活された」。先週の礼拝は、この知らせを喜び、ここに教会の希望があることを改めて確認した、恵みに満ちたイースター礼拝であったと思います。
本日の聖書箇所における中心のメッセージは、23節の「イエスは生きておられる」です。ところが、このメッセージを聞いていた弟子たちには、そのときに喜びがなかったのです。
2人の弟子たちは、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。そこへ見知らぬ人が一緒に歩き始めました。弟子たちは同行した人に語りました。イスラエルを解放してくださると自分たちが望みをかけていたナザレのイエスが、十字架につけられてしまったこと。そればかりでなく、仲間の婦人たちが、「イエスのお体が見当たらず、天使たちが現れて『イエスは生きておられる』と告げた」と言っていること。弟子たちの望みが打ち砕かれ、それを回復する道も見出せず、イエスの復活の知らせによって困惑させられていたことが分かります。
ところで、弟子たちのこの言葉は、使徒言行録第2章あるいは第3章のペトロの説教と同じ内容なのです。「イエスは引き渡され、十字架にかけられて、殺された。しかし、神はイエスを復活させられた」。ペトロは聖霊に満たされ、力強く説教しています。同じ言葉が、ここでは弟子たちに望みを与えていないのです。それはなぜでしょう。主イエスの嘆きの通り、「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない」(25節)からでした。実は私たちも同じなのです。御言葉を信じない、心が鈍くなっている。だから、目が遮られていて、イエスが来られてもイエスだと分からないのです。
そのような私たちに、イエスは共に歩んでくださっているのです。主イエスは続けて語ります「メシア〔キリスト〕はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(26節)。これはルカ24章7節の「必ず・・・なっている」と同じ言葉が使われていて、神の御意志、神の必然〔must〕を示しています。すなわち、十字架無くして復活はなく、苦難無くして栄光はない。そのことは旧約聖書全体に預言されていた、と2人に聖書を説き明かしてくださったのです。
その時のことを、後で、2人はこのように言い合いました。「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と。我を忘れるような燃え方ではありません。まだイエスだと分からなかったけれども、御言葉の説き明かしを聞いていたときから、2人の心は静かに燃やされていたのです。それは私たちも同じように経験しています。
2人はエマオに着いて、同行した旅人を客として迎えました。するとその旅人が、食卓の主人のようにして、パンを取り、賛美の祈りをささげて、パンを裂いて渡しました。その時、2人はこの人はイエスであると分かりました。不思議なことに、2人の目にイエスの姿は見えなくなりました。しかし2人はもう絶望することはありませんでした。イエスが確かに生きておられることが分かったからです。
そればかりでなく、すぐに時を移さずエルサレムに戻ったのです。福音が心の底まで届くと、体が動き出します。仲間の弟子たちに「イエスが生きておられる」と知らせに行きました。
主の日の礼拝は、エマオへの旅のようです。私たちに主イエスが同伴して、御言葉を説き明かし、神の出来事を知らせてくださいます。私たちの心は燃やされて、この恵みを分かち合うために、向きを変えて出発するのです。