4月18日(日) 復活節第3主日 一般礼拝順序

黙  祷
賛  美    328   
主の祈り
交読詩編  詩編126篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ルカによる福音書第24章36~49節
説  教  「心の目を開いて」
賛  美   327 
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 主イエスは週の初めの日の朝早く復活されました。本日の聖書箇所は週の初めの日の夜遅くの出来事です。ルカ福音書第24章は、主イエスが復活された長い一日の出来事を記しています。
 弟子たちが集まって「イエスとお会いした」と互いに話しているところに、復活された主イエスが訪れましたが(36節)、当のイエスご自身が来られると、弟子たちは亡霊だと恐れおののいたのでした(37節)。まことに復活とは信じ難いことだと思います。主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)と弟子たちの不信仰を指摘されています。そして「わたしの手や足を見なさい」(39節)と言い、手と足をお見せになりました(40節)。主イエスの手と足には十字架の釘の傷跡がありました(ヨハネ20:27参照)。復活のイエスは、十字架で死なれたイエスと同じ方です。十字架の傷跡があるからこそ、この方は主イエスなのです。人間が主イエスを十字架につけました。弟子たちも主イエスを見捨てました。弟子たちは人間を代表しているのです。私たち人間の罪をその身に負って、イエスは十字架にかけられ、私たちの罪を赦してくださいました。神はそのイエスを死から復活させてくださいました。弟子たちを訪れた復活の主イエスの最初の言葉は「平和があるように」(36節)。イエスは弟子たちを責めず、平安へと招いておられます。ルカが「彼らが喜びのあまりまだ信じられず」(41節)と書いているのも面白いです。喜びはだれもが望むでしょうが、喜びのあまり信じられないということがあるのです。信仰とは神からいただくもので、私たちの悲しみや喜びが信仰を生み出すのではありません。イエスがお魚を召し上がられたことにもユーモアを感じます(43節)。教会の信仰は、霊魂不滅ではなく、体の復活です。
 主イエスが魚をお召し上がりになったので、弟子たちが復活を信じた、とは書いてありません。大切なのは主イエスが御言葉を説き明かされたことです。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)の「必ず」は、ルカ24章7節、26節でも同じ言葉が使われていて、ここで3度目、神の御意志、神の必然〔must〕を示しています。イエスの十字架と復活は神の御計画の成就でした。すでに主イエスは語っておられたのでしたが(44節後半)、弟子たちは悟っていませんでした。主イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(45節)くださいました。主に心の目を開いていただかなければ、私たちは聖書を悟ることはできないのです。「メシア〔キリスト〕は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)。これも3度めです(ルカ24:7、26参照)。さらに「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)。救いはイスラエルの民だけのものではなく、全世界の人々のためにあると、はっきりと告げられました。このことは旧約聖書に預言されていたのです。そこで弟子たちに使命が与えられました。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(47~48節)。けれどもこの使命も人間の力で果たすことはできません「わたしは、父が約束されたもの〔聖霊〕をあなたがたに送る。高い所からの力〔聖霊〕に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。聖霊が降り、力を受けて、弟子たちは主イエスの十字架と復活の証人とされ、あらゆる国の人々に罪の赦しの福音が届けられるのです。
 使徒ペトロは、使徒言行録第10章41節で、「イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対して」イエスは現れたと語っています。福音は、食事をするという日常生活の中で語られ、聞かれることも、心に留めたいと思います。