4月25日(日) 復活節第4主日 一般礼拝順序

黙  祷
賛  美    575   
主の祈り
交読詩編  詩編23篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   コロサイの信徒への手紙第3章1~11節
説  教  「永遠の命を信じます」
賛  美    532
役員任職式   
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 原則として月に1度、日本基督教団信仰告白に沿って説教してまいりまして、本日の説教「永遠の命を信じます」で一区切りとなります。「永遠の命」というと、「終わりがない命」と言えると思いますが、本日の聖書から分かるのは、「永遠の命」とは「キリストと共にある命」です(3節より)。
 「あなたがたはキリストと共に復活させられた」(1節)とは、洗礼を指しています。洗礼とは、キリストと共に死んで、キリストと共に新しい命へ復活させられることです。キリストと共に死ぬとは、この世に対し、罪に対して死んだ、ということです。
 まもなく5月。5月は私の母が死んだ月です。母の死は私の献身の原点なのです。あのとき死んだ母にいくら声をかけても、何も答えませんでした。本当に悲しいことでした。私たちはそれぞれ、家族の死を経験していると思います。洗礼を受けている人はキリストと共に死んだのです。この世がいくら声をかけてきたとしても、世に対して死んだのですから、何も答えないのです。洗礼を受けた人は、この世や罪の支配にはないのです。
 キリストと共に死に、キリストと共に復活させられた私たちは、神に対して生きるのです。本日の聖書では「上にあるものを求めなさい」(1節)とあります。「そこではキリストが神の右の座に着いておられる」(1節)。私たちは、キリストがおられる天を見つめて生きます。「あなたがたは死んだ」(3節)とは、大胆な言葉です。「死んだ」と言われ、しかしなお地上で生きるとはどういうことでしょう。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(3節)。隠されて、覆われているので、目には見えません。「隠されている」という語には「護られている」という意味もあります。私たちの命は、いちばん安全で、確かなところで護られているのです。そして、いつまでも隠されたままではおりません。「キリストが現れるとき」(4節)、隠されている命はキリストの再臨のとき「キリストと共に栄光に包まれて現れ」(4節)ます。キリストと同じ復活の体を与えられるという約束を信じて生きる私たちです。
 5節に「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」とあり、8節には、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」とあります。これらは罪のリストです。コロサイの教会にこれらの罪があったから、こう語られているのです。それは西川口教会にもあります。私たちは「以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」(7節)が、今は、キリストの恵みの中で、御言葉の光の中で、これらが罪であり、地上的なものであって永遠ではないと知っています。だからこそ「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」(9節)るよう求められ、さらに「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(10節)。地上的なものを捨て去った私たちを、神が、キリストに似たものとなるよう導いてくださいます。そのときにはあらゆる対立もなくなる、というすばらしい世界が訪れます。「もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人〔社会の下層階級と見なされていた人〕、スキタイ人〔残虐な人々〕、奴隷、自由な身分の者の区別はありません」(11節)。キリストに結ばれた人は、その存在そのものが肯定され「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(11節)。それはまずキリストの教会から始まります。13節には「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」とあります。どこまでも主に赦されている、それが原点です。