5月 2日(日) 復活節第5主日 一般礼拝順序

黙  祷
賛  美    464   
主の祈り
交読詩編  詩編139:1~10
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第1章1~5節
説  教  「生ける神に呼ばれて」
賛  美    516
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 本日からガラテヤの信徒への手紙の説教を始めます。私たちプロテスタント教会の源流は、マルティン・ルターの改革にありますが、ルターはこの手紙を「我が妻」と呼んだそうです。当時の教会が神からの権威を誤って用いていたことに対して、ルターは福音の真理に立って批判しました。ガラテヤの信徒への手紙の福音が、ルターの原動力となりました。
 今なおコロナ禍の試練の中で、教会とは何か、福音とは何か、教会の使命とは何か、信仰の基本とは何か、改めてこの手紙から聴きたいと願っています。昨年は、コロナのために集まることを止めた2か月がありました。昨年は西川口教会の70周年でしたが、70年の歴史の中で、そのようなことは今までありませんでした。教会は集まって礼拝して、伝道します。それはいったいどういうことなのか、問われた思いがいたします。
 パウロが発信者として自己紹介をしています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(1節)。人によってではなく、神によって使徒とされた、と語っています。「使徒」は当時の教会の最高の権威の職務ですが、パウロは、人の権威によってではなく、神の権威によって召し出されて使徒の務めについた、と言うのです。
 ここでパウロが語っていることと通じると思いますが、私たちは、教会の制度や規則を無視して活動はしません。けれども、それが伝道を進める力となるかというと、そうではありません。私はここで説教をしていますが、制度や規則が説教にいのちを与えるかというと、そうではありません。私が牧師として召し出されたのも、人ではなく神に呼ばれてのことです。それは伝道者だけではなく、皆様一人ひとりが今ここにいるのも、人を、あるいはいろいろな出来事を通してですが、その根底は生ける神に呼ばれてのことです。そのことを識別することが大切です。
 2004年から説教塾に参加しています。行き始めた頃に聞いた講演で、ガラテヤの信徒への手紙第1章1節のパウロの言葉が示されたとき、目から鱗が落ちる思いがしました。パウロは、人間的な頼りになるものをすべて手放して、生ける神の前に裸で一人立っている。崖っぷちという言葉がありますが、その崖にしがみつく手さえ放して、生ける神のふところに落ちる。そういうイメージだというのです。今までこの御言葉をそのように読んだことはありませんでした。説教者はどこに立っているのか、その立ち位置を正された思いがしました。人間的なものに頼って、自分を強くしたいという誘惑があることに気付かされました。
 パウロは「キリストを死者の中から復活させた父である神」と呼んでいます。「神が父である」とは、自分は神の子とされているということです。自分を使徒とした神の権威がどこに見えているのかというと、キリストを死者の中から復活させられた出来事に見えているのです。信仰によって見るのです。その神の力、神の権威によってパウロは使徒とされ、私たちの教会もこの神の力、神の権威によって礼拝し、活動するのです。
 十字架がなければ復活はありません。4節に十字架の出来事が語られています。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」。
 手紙の発信人は使徒パウロだけではありません。「ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から」(2節)。パウロは独りで宣教したのではなく、教会に生きる兄弟姉妹と共に宣教しました。このパウロの立ち位置に私たちも立って宣教します。