5月 9日(日) 復活節第6主日 一般礼拝順序
黙 祷
賛 美 546
主の祈り
交読詩編 詩編119:129~136
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第1章1~10節
説 教 「キリストの福音のみ」
賛 美 377
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
昨日はがん哲学カフェで映画を鑑賞しました。その映画で、乳がんになったお母さんとそのお子さんの日常の風景の映像が流れました。お母さんは朝ご飯を作り、お子さんの幼稚園に持っていくお弁当や服などを準備しています。その子はスヤスヤ寝ています。お母さんが「朝だよ」と、その子を起こします。まだ寝ていたいので、その子は「まだ夜だよ」と起きようとしません。その光景はとてもほのぼのとしていましたが、その子の言葉と、今日の聖書の箇所とが重なるように感じました。
キリストは「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」(4節)のです。キリストは救いの光、いのちの光です。キリストはすでに歴史の中に来てくださいました。「悪の世」とはこの主イエスを十字架につけてしまう人間の罪の世界であり、暗闇の世界です。しかし、神はその闇に囚われている人間をお見捨てにならず、キリストを遣わし、私たちを暗闇の世から救い出してくださいました。
前回、このガラテヤの信徒への手紙は、信仰の戦いの手紙と申しましたが、今日の箇所からその戦いの姿が見えてきます。6節「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」。いのちの主は来られ、朝の光が差し込むように、私たちはキリストの恵みの光の中に入れていただいたのに、「まだ夜だよ」と言うかのように、他の福音に乗り換えようとしている、ガラテヤの教会はそういう危機の中にあります。パウロは憂い、危機の中にいることを自覚していない信徒たちに「目を覚ましてほしい」という思いで語っているのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではない」(7節前半)。先ほどの4節にはキリストの十字架の出来事が語られ、1節には「キリストを死者の中から復活させた父である神」とあるとおり、キリストは父なる神によって復活させられ、今も栄光のいのちに生きておられます。このキリストの十字架と復活の神の出来事こそ福音です。キリストの福音、キリストという福音だけが、福音なのです。ここに私たち教会のよって立つところがあります。信じるに足る福音など他にはないのです。
さらにパウロは、神の言葉を語る者の責任の重大さを伝えます。8節「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」。「呪われる」とは神の裁きを受けるということです。パウロは「神によって使徒とされた」(1節)と語っていますが、だから自分が何を語ってもよいというのではありません。福音に反することを告げたなら、呪われるのです。神に裁かれるのです。それは、今こうして説教を語っている私も同じです。聴き手の責任もあります。9節には「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば・・・」とあります。パウロは、かつて確かに福音を告げ知らせ、教会は確かに福音を受けたのです。ですから、何が語られ、何を聞いたかは本当に大切なのです。告げ知らされた福音なのかどうか、聞く方も識別しなければなりません。
先ほどの映画では、なかなか起きないその子をお母さんが抱きかかえて、朝の光の明るい部屋へと連れてきました。その子はおいしい朝ご飯を食べて、支度して幼稚園に出かけていきました。
私たちも、自分で自分を救ったのではなく、父なる神の力強い御腕によって救い出していただき、いのちの光の中に入れていただきました。そこが、本来、私たちが生きるべきところなのです。キリストの福音だけが、教会の立つところなのです。