5月23日(日) 聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨日
ペンテコステ礼拝順序

黙  祷
賛  美    346
主の祈り
交読詩編  詩編8篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  コリントの信徒への手紙一第13章1~13節
説  教  「愛がなければ」
賛  美    487
聖  餐     81
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

  2021年度は、西川口教会は「愛の実践を伴う信仰に生きる」という教会主題を掲げています。本日は聖霊降臨日。愛に生きるとはどういうことか、聖霊の賜物である愛を語る聖書の言葉を聴きたいと思います。本日の聖書の言葉は有名な言葉だと思いますが、前後関係を心に留めて読むことが大切です。直前の、コリントの信徒への手紙一第12章には、教会はキリストの体であり、一人ひとりはキリストの体の部分であると語られています(コリント一12:27)。それぞれが賜物に応じて役目を負っていて、体のどの部分も大切なように、だれ一人も欠けてはならない大切な存在なのです。そのキリストの体である教会で、一人ひとりが良く生かされるために、使徒パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(コリント一12:31)と語ります。すべての人に分け隔てなく与えられる「もっと大きな賜物」であり、すべてにまさる「最高の道」は愛です。第13章はキリストの体である教会を生かす愛が語られているのです。
 第13章1節から3節までは「愛がなければ」というフレーズが心に残ります。1節に「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」とありますが、打楽器が、例えばオーケストラの楽曲の中で、演奏されるべきところでふさわしい音を出すならばよいのですが、ふさわしくないときに音を出すならば全体を乱す騒音となってしまいます。ここでパウロは「わたしは」と語っています。他の誰かではないのです。自分の語る言葉がそのようになっていないかという自己吟味です。「異言」とは、聖霊によって舌が動かされ、言語にならない音声を発することで、コリントの教会で、異言を誇ったり、羨んだりということもあったようです。「天使たちの異言」なら、なおさらでしょう。しかし、「愛がなければ」言葉は届きませんと言っているのです。私たちの言葉が、愛の言葉になっているのかどうかが問われます。
 愛そのものは物ではないから見えませんし、手渡すこともできません。しかし、愛は見えてくるのです。4節以下です。「愛」を「キリスト」と置き換えて読むとよく分かります。「キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない。キリストは礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない…」。このように、愛は人格において、関係において見えてくるのです。6節に「不義を喜ばず」とあります。聖書でいう「義」とは正しい関係です。神と自分とが本来あるべき健やかな関係に生かされることです。私たちはキリストを信じることによって義とされます。パウロは「信仰による義」を、ローマの信徒への手紙で力を尽くして語っています。神との正しい関係「義」に生かされるとき、自分を受け入れ、隣人も受け入れることができます。愛に生きることができるのです。
 8節以下は、少し難しいと感じられるかもしれません。教会は10節の「完全なものが来」る日を信じて待っています。キリストが再び来られる日です。この聖書箇所の言葉を用いれば、キリストがこの世界を完全な愛で満たしてくださるとき、と言えるでしょう。今は、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分」(9節)という限られた中を生きており、私たちの愛も不完全です。けれども「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(12節後半)のです。神に「はっきり知られている」とは、愛されているということです。私たちは、神にどこまでも赦され、どこまでも受け入れられています。
 第14章1節「愛を追い求めなさい」と続きます。愛の賜物は必ず与えられるのですから、熱心に追い求めるのです。