6月20日(日) 聖霊降臨節第5主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    509
主の祈り
交読詩編  詩編57:6~12
祈  祷
使徒信条
聖  書  ローマの信徒への手紙第13章8~14節
説  教  「光の中を生きるように」
賛  美    507
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 今年度私たちは、ガラテヤの信徒への手紙の御言葉から「愛の実践を伴う信仰に生きる」と主題を掲げて歩んでいます。それはいったいどういうことか、今日の聖書箇所から受け取ることができると信じます。
 この聖書箇所を、説教塾のオンラインセミナーで時間をかけて学びました。この国ではキリスト者は少数者ですが、セミナーの中で、今日の聖書の前半部分を受けて、「この隣人愛に生きているのはキリスト者だけなのか」と問いかけがあり、キリスト者だけが愛に生きているわけではない、と語り合いました。
 では、私たちキリスト者がなぜ隣人愛に生きるのか、その動機は時を知っていることにある(11節)と、今日の聖書から改めて受け取りました。11節を、前からのつながりを明確にして訳すとこうなります。「しかも、あなたがたがこのように〔隣人を自分のように愛して〕生きるのは、あなたがたが時をわきまえているからです」。キリスト者だけが知っていること、それは「時」です。救いの時です。使徒信条で告白したとおり、キリストが再びおいでになり、救いの歴史を完成してくださる時です。その時が近づいていることを、私たちは知っているのです。
 12節「夜は更け、日は近づいた」。夜の闇が深くなりました。だが、昼は近づいているのです。初代教会の時代、迫害が厳しいときは地下の墓地に集まって礼拝するほどでした。闇はますます深くなり、光は全く見えません。教会はキリストの約束を信じ、救いの日は近づいていることを信じて、礼拝をささげ続けました。
 先日、礼拝教育部から配られた祈りの祈祷表を新しく作るという案内に、マタイ福音書第25章冒頭の十人のおとめのたとえが引用されていました。花婿を待っている間、おとめたちは皆眠り込んでしまいました。ゲツセマネの園で主イエスが祈っていた時、弟子たちはその近くで眠り込んでしまいました。初代教会でも眠り込んでしまいそうになることがあったのだと思います。それほどに闇の誘惑の力は強く、私たちは弱いのです。ですから「闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう」(12節後半)と、光に生きる決断を求められています。13節では「日中を歩むように、品位をもって歩もう」と、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」よう、と語られています。キリストに救われるまでは、酒や性の誘惑、自己主張が闇の業だと知らず、闇に生きていました。キリストに救われて初めて、自分がどこにいて、どのように生きていたかを知るのです。さらに14節「主イエス・キリストを身にまといなさい」。イエスを「主」としてお迎えし続けることです。私は主のもの。主に従います。14節後半「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」。私たちは、欲望を満足させるために、心を用いるのではありません。
 ローマの信徒への手紙は、第12章から、救われた者の生き方が語られます。今日の聖書もその文脈にあります。冒頭に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12:1)とあるように、私たちは自分の体を神に献げて生きるのです。何に生きるかというと「隣人を自分のように愛しなさい」(9節)という隣人愛に生きるのです。8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とは、誰に対しても借りがあったままではいけないが、互いに愛し合うことだけは例外で、借りを返して終わりとはならない、終わりなき奉仕である、ということです。隣人を自分のように愛することができるのは、自分がどこまでも神に愛されて赦されていることから始まります。神に愛されている自分を受け入れて、神に愛されている他者を隣人として受け入れて愛し、仕えて生きるのです。