6月27日(日) 聖霊降臨節第6主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編86:1~10
祈 祷
使徒信条
聖 書 出エジプト記第20章4~6節
説 教 「熱情と慈しみの神」
〔十戒による説教・第2戒〕
賛 美 227
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
信仰生活の基本を身に着けるために、先月から十戒による説教を始めました。今日は2回目で第2の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節前半)を学びます。
この戒めは「偶像礼拝の禁止」と理解されてきました。けれどもよく読むと、像を「拝んではならない」ではなく、像を「造ってはならない」なのです。口語訳聖書では「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」となっていて、「自分のために」という言葉が入っています。これも大事です。
当時、神の霊は像を住まいとするという考え方がありました。エジプトには既にファラオがいたように、周辺諸国には王制が始まっていて、国境には王様の石の像が置かれていました。それは王の霊がそこで支配していることを示していました。しかし、それを神の側から見るならば、像のあるところにしか神はいないことになり、そういう神を人間が造るということになります。
前回の十戒の説教で、出エジプト20章2節の言葉が大切だと申しました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。主なる神は、エジプトの国で奴隷状態であった民の神となり、その苦しみを知り、民のうめきを聞き、力強い御腕で救い出してくださった。そのような神が、像のあるところにしかいない神であるはずがない、ということ。像を造らないとは、この自由に働かれる神に信頼していくこと。それが第2の戒めの心なのです。
しかし旧約聖書を読むと分かりますのは、神の民の歴史は、偶像礼拝に走っていく背きの歴史でもありました。そのような民の姿を鋭く批判した預言者の言葉があります。偶像礼拝の本質はどこにあるのか、問われる言葉です。イザヤ書第44章9節以下を読みます。「鉄工は…槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが 飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる」(イザヤ44:12)。鉄工は自分の能力を発揮して像を造ります。けれども造る鉄工は人ですから、飢えもするし、渇きも覚える存在です。「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか」(イザヤ44:15)。痛烈な批判です。「残りの木で神を、自分のための偶像を造り ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と」(イザヤ44:17)。「自分のための偶像」とは、自分の願い通りにならなければ、捨てることができる神です。金属なら鋳直し、木像なら焼いてしまうでしょう。偶像礼拝とはそういうものだというのです。
教会に生きる私たちは実際に木像など造らないでしょう。しかし、神、キリスト、聖書を「自分のための偶像」にして、自分の願い通りにならなければ、捨てられると思っていないでしょうか。
偶像礼拝に走っている民に、神は語られます。イザヤ書の続きです。「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」(イザヤ44:22)。民が立ち帰る前に、既に神は、背きと罪を吹き払った、と言うのです。贖ったと言っておられるのです。だから立ち帰ることができるのです。「イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」(イザヤ44:21)とは、「イスラエルよ、これほどまでにお前を愛している私を忘れるな」という神様の熱情の言葉です。
出エジプト記に戻ります。「わたしは熱情の神である」(5節前半)。口語訳聖書では「ねたむ神」でした。ねたむほどに愛してくださっています。その神の愛に応えることが「わたしの戒めを守る」(6節)こと。そこには「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」という祝福の約束があります。