7月4日(日) 聖霊降臨節第7主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 409
主の祈り
交読詩編 詩編116篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第2章15~21節
説 教 「キリストが私の内に」
賛 美 531
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
今日の箇所の直前には、パウロが、ケファ〔使徒ペトロ〕を福音の真理に従っていないと非難したと語られています。ペトロはアンティオキアを訪れ、初めは教会の異邦人キリスト者と一緒に食事をしていたのですが、エルサレム教会の派遣団が来ると、一緒に食事をしなくなってしまいました。ユダヤ人にとって異邦人との食事は律法違反で、汚れることだったからです。
今日の箇所はその続きです。15節「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」。これは、自分たちユダヤ人は神に選ばれた民であり、そのしるしとして割礼を受けており、律法が与えられている。それ以外の人々は異邦人であり、罪人である、ということです。ユダヤ人キリスト者たち、そしてキリストに救われる以前の使徒パウロもこのように考えていたと思われます。
しかし、福音書を見ますと、主イエスは、ユダヤ人であっても罪人と呼ばれていた人々(徴税人や遊女)と、共に食事をし、福音を分かち合い、神の分け隔てない愛を示されました。
あなたがたは、このイエスをキリストと信じたのではないか、と語るのです。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(16節)。もうユダヤ人と異邦人の区別はなくなってしまっています。「人は」とあります。ですから「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない」(17節)。食事が問題になっていました。使徒パウロは異邦人キリスト者と食事をしていました。そのことを律法違反と非難し、パウロが罪人だとされるならば、この自分に仕えてくださったキリストが罪に仕える者となるではないか。断じてそうではない、のです。事柄はいつもキリストの救いの御業から見ていくのです。キリストがすべての中心なのです。私たちは愚かで、自分は大丈夫などと断言できませんが、キリストの救いの恵みは、十分で、完全だ、と信仰によって断言できるのです。
いつもキリストを仰ぎますから、今、私たちの会堂にも礼拝堂にも十字架を掲げています。私たちは、パウロが「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19節後半)と言っているように、はっきりと言えるでしょうか。「キリストと共に十字架につけられている」という言葉から、主イエスの十字架の出来事を思い起こします。主イエスの十字架の右と左に二人の犯罪人が、共に十字架につけられました。本日は、ルカ福音書第23章39節以下を読みます。ここには、主イエスをののしる罪人と、悔い改めて神の国に入れていただいた人が描かれています。主イエスは、自分をののしる罪人のためにも命を献げておられるのです。十字架のキリストを仰ぐとき、自分がキリストと共に十字架につけられている姿をもはっきりと見ることができれば、「神様は共にいてくださらないのではないか。自分の信仰は十分ではないのではないか」というような疑いや迷いはなくなります。
もう私は十字架で死んだのですから「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節前半)。これは、自分の体が本当に十字架にかけられるというのではなく、信仰によることです。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(20節後半)。それぞれが置かれたところで体を持って生きています。その存在そのものが、主イエスのものとされているということです。