7月11日(日) 聖霊降臨節第8主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    540
主の祈り
交読詩編  詩編63:1~9
祈  祷
使徒信条
聖  書  マタイによる福音書第18章18~20節
説  教  「あなたがたの二人が」 ―祈りを学ぶ―
(説教者  東京聖書学校神学教師 島 隆三師)
賛  美    544
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 祈りについての奨励をとのことなので、マタイ18章の御言葉から2つのことをお話したい。
 第一は20節。二人または三人が主イエスの名によって集まるところに主イエスも共にいてくださるということ。主イエスがおられるところに神の国はある、この礼拝の真ん中にも主イエスがおられ、ここにも神の国がある。「神の国はいつ来るのか」とのファリサイ派の人々の質問に、主イエスは「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17・20)と言われた。
 だから、主イエスの名によって共に集まるということがどんなに大切か。恩師の中島代作師は「教会は集会である」とよく言われた。ところが昨年からコロナが蔓延して、教会の集会が今までのようにできなくなった。西川口教会は感染に注意しながら礼拝も祈祷会も守られているが、今、礼拝や祈祷会を中止している教会は多い。コロナだから仕方がないと言う。しかし、これは教会にとって致命的なことだ。また、多くの教会では集まることが困難なので、オンライン礼拝が行われている。昔なら考えられなかったことで、文明の利器はすごいとも言える。今までは「教会に集まってください」と言ってきたが、「今は教会が各家庭に入り込んだ」と言う人もある。あるいは「今までは場所を共有していたが、今は時間を共有している」と言う人もある。
 これらは、確かに当たっているところがある。しかし、もう一度、主イエスの言葉に帰れば、一緒に集まることは、教会にとって本質的なことなのだ。それを忘れてはならない。だから、安易に「オンライン礼拝ができるから」と言うのはどうだろうか。教会は今日までどんなときにも必死で集会を守ってきた。
 しかし、どうしても集まれないときもある。体調が悪い時、高齢で足も弱り、行きたくても行けない時もある。今日のようなコロナの蔓延というような場合もある。しかし、その場合も、安易に集会を休むとか、オンラインでやれば良いとか、簡単に言ってはならない。少なくとも、そこには大きな痛みがあるはずだ。
 第二のことは19節「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら…」ということ。一緒に集まっていても、心はばらばらということはいくらでもある。これが今日の家庭の最大の問題ではないか。家族であっても、親と子、夫と妻、或いはきょうだい同士が心がばらばらで一致しない。
私は以前、あるセミナーに出た。その時、海外からの講師が、「家族という以上は、少なくても週に1時間は一緒に過ごし語り合う、それは最低求められることだ」と言われ、なるほどと思った。しかし、日本の家庭で、それができている家はどのくらいあるか。家族とは名ばかりで、実際は同居人というのが偽らざる現実ではないかと思った。
 さて、問題は教会だ。教会は神の家族だ。この神の家族が、日本の多くの家庭のように、家族まではいかず、家族未満という教会が多いのではないか。主イエスは、心を合わせた祈りの大切さを弟子たちに語られたが、それは祈りだけではなく、教会のことすべてに当てはまる。でも中には「私は一人が好きなのです。誰かと一緒にやることは嫌いなのです」という人がいる。そういう人は、特にこの御言葉に注意してほしい。それは好き嫌いの問題ではなく、教会にとって本質的なことなのだ。
 これはなぜだろうかと私も考えてみた。心を合わせて祈るから全て正しい祈りとは言えない。本当の祈りは「神のみ心にかなう祈り」であり、そういう祈りが応えられるとヨハネの第一の手紙にもある(5章)。
 古い聖書注解に、19節の「二人」をわざわざ「夫と妻」と書いているものがある。ここから私が思い出すのは、私の父と母のこと。父と母は二人でよく祈っていた。その祈りが全て応えられたとは思わないが、全体として応えられたと思っている。3人の子どもたちを病で失ったが、後の5人は今日まで生かされ、皆両親の信仰を受け継ぎ、それぞれ信仰の道を歩んできた。私が牧師として今日あることも、両親の祈りなしには考えられない。
 我々夫婦の場合も、2年前に教会の責任を解かれて川口のマンションに越してきてから、朝起きたらまず二人でアパルームと霊想書を読んで、心を合わせて祈り、主の恵みを噛み締めている。自分たちの例で申し上げたが、皆さんも、それぞれ自分の思いや経験に当てはめてこの主イエスの言葉を考え、実践していただきたい。