7月18日(日) 聖霊降臨節第9主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    58
主の祈り
交読詩編  詩編40:1~12
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第3章1~6節
説  教  「信仰は福音を聞くことから」
賛  美    472
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝  祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 私たちは手紙を書くとき、相手の人に、「物分かりの悪い」(1節)あるいは「愚かな」(協会共同訳)人たちだ、と書くことはないだろうと思います。それほどのことを語らざるを得なかったのです。これは、使徒パウロがガラテヤ地方の諸教会にあてた手紙ですが、今この聖書の言葉を、神が私たちに語られていると信じて聞くことが大切です。2節には「あなたがたに一つだけ確かめたい」とあります。「ただ一つのこと」から、ガラテヤの教会の人々は逸れていってしまいました。それは何でしょうか。それはイエスがキリストである、という福音に生きることです。
 「だれがあなたがたを惑わしたのか」という言葉に、使徒パウロの嘆き、怒りを感じます。この「惑わす」という言葉は「よこしまな視線を注いで、相手を捕らえる」という意味で、ガラテヤの諸教会の人々が、まるで魔物にでも取りつかれ、普通ではなくなってしまっているとしか言えない、ということなのです。
 どうしてそんなことになってしまったのか。あなたがたの「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」はずではないか、と語っているのです。
 十字架は教会のしるしです。礼拝堂にも、教会堂にも十字架を掲げています。プロテスタント教会ではシンプルな十字架が多いと思いますが、その十字架を仰ぐとき、そこにキリストがおられることを見失ってしまってはならないのです。「イエス・キリストが十字架につけられた」の動詞は完了形で、十字架にかけられたままのイエス・キリストという意味です。この方は、ガラテヤ書第2章20節にあるとおり「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」なのです。私たちは十字架を仰ぐときに、神の愛、キリストの愛を知るのです。十字架のキリストが、私たちの死も罪も重荷も、苦しみも不条理も、負っていてくださるから、十字架を仰いでいれば大丈夫なのです。それだけではなく「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)から、十字架を仰ぐときに、キリストと共に私も死に、キリストによって生かされている自分を知るのです。
 「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」の「はっきり示す」は、プラカードを掲げるように、はっきり、だれにでも見えるように示す、という意味です。ガラテヤの教会の人々が、実際にエルサレムの主イエスの十字架を見たわけではありません。使徒パウロによって福音が語られ、聞かれて、霊の目によって、十字架にかけられたイエス・キリストをはっきりと見たのです。
物分かりが悪くなってしまっている教会の人々に、パウロは「あなたがたに一つだけ確かめたい」(2節)と語ります。本当に大切なことは一つだけなのです。「あなたがたが“霊”を受けたのは」つまり、救われたのは、「律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(2節)。これは質問ではありません。答えは決まっています。福音を聞いて信じたから、神の霊を受けて救われたのです。イエスがキリストだと信仰の告白をして、洗礼を受けたのです。
 律法を行って救われようとすると、ルカ福音書第18章9節以下のたとえに示されているように、自分は正しい人間とうぬぼれて、他人を見下すようになります。このたとえのように、人の目には善い行いをしていても、自分の行いを誇り、救われるにふさわしい人間だと思い込む。福音を聞いて信じるとき、人は自分を誇ることはできません。聞いて受け入れるだけです。救われるための行いは必要ありません。福音を聞いて始めたのですから、今日も、明日も、いつまでも福音を聞き続けるのです。