7月25日(日) 聖霊降臨節第10主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    205
主の祈り
交読詩編  詩編145:1~9
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章1~7節
説  教  「正しく主を呼ぶこと」
        〔十戒による説教・第3戒〕
賛  美    444
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 神によって解放され、自由にされた民が、神の民として生きるべき道が、十戒です。今日は第3の戒めを学びます。7節前半「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。この戒めを知る鍵の言葉は「みだりに」です。「みだりに」というのは秩序を崩すような仕方で、ということ。古代においては、魔術あるいは呪いのために神の名を用いることを意味しています。
 古代の人々には、神を呼んだら神は応える、という考え方がありました。バビロニアのマルドゥク神は50も名を持っているので、1つくらい名前を呼んでも応えない。そういう仕方で自己防衛します。一方、エジプトでは、女神がラー神の名前を知るために黄泉まで追いかける、という神話があります。あくまでも名前を隠すという仕方で自分を守るのです。
 旧約聖書の神はどちらでもありませんでした。「主」という唯一の名前を、明らかに宣言されました。それは、人が神を呼べるということです。名前を呼ぶとは交わりに入ることです。神はご自分の名を明らかにして、私たちを交わりへと招いておられる。「わたしを呼べ」と言ってくださるのです。
 主なる神は、モーセを召し出したとき、その名を示されました。「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。…あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主…これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3:14~15)。神は、神の民イスラエルのうめき声を聞き、苦しみを共にし、父祖たちと交わした契約を思い起こし、奴隷の民から自由の民へとしてくださったのです。民が「お救いください」と願ったから神が民を救われたのではなく、まず神が民をエジプトから救い出してくださいました。解放されて初めて民は、自分たちを救い出してくださったのは「主」であると知ったのです。
 そのように救い出されたのですから、神の民が「みだりに」、つまり魔術や呪いや自分の利益のために、神の名を唱えるはずがないのです。ヘブライ語には禁止命令の形がないので、直訳すると「唱えない」、「唱えるはずがない」となります。ですから、7節の後半「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」は、自分勝手に神の名を唱えるはずがないのに、そうするなら、その罪を主は見過ごすことはなさらないということです。
 ユダヤの歴史においては、「主」という名を呼ばないようになりました。そのためにユダヤの人々は「主」を何と呼ぶかを忘れました。近年の聖書学では、ヘブライ語の「主」に当たる語は「ヤーウェ」と発音していたであろうということです。
 けれども、ユダヤの人々のしたことは、他人事ではないと思います。現代の日本でも、病気や事故など思いがけない災難を天罰とか神の祟りと思ったり、それをなだめようとしたり、災難を回避しようとして偶像を作ったり拝んだりすることがあります。
 聖書の神は祝福の神です。「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:6)御方です。私たちが「これをしたから神に罰せられるのではないか」と、おどおどしたり、びくびくしたりして生きることを、神は望んではおられません。
 最後にローマの信徒への手紙の御言葉を共に聴きましょう。
 「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12~13)。「あなたがたは…神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。