8月 1日(日) 聖霊降臨節第11主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    425
主の祈り
交読詩編  詩編51:12~19
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第3章6~14節
説  教  「信仰に生きる祝福」
賛  美    402
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 ガラテヤの信徒への手紙では、本日の箇所以降、旧約聖書の引用がたくさん出てきます。これまでは使徒パウロやガラテヤの教会の信仰体験が語られてきましたが、聖書の言葉に基づいて、福音の真理、そして神の真実が説き明かされていきます。
 ガラテヤの信徒への手紙第3章6節「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」は、創世記第15章6節の引用です。創世記第15章6節では「アブラム」となっていますが、「アブラハム」と同じ人物です。
 アブラハムは、神に「あなたの子孫を祝福する」と約束を受けて、一家でカナンの地にやってきました。しかし約束を受け継ぐはずの子どもはすぐに与えられませんでした。創世記第15章1節で、神がアブラハムに「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られた時、アブラハムは「自分には子供がなく、家の僕が跡を継ぐ」と応えました(創世記15:2~3)。神はアブラハムに「あなたの子どもが跡を継ぎ、あなたの子孫は天の星のように数えきれないほど増え広がる」(創世記15:4~5)と改めて約束してくださいました。アブラハムは、主の言葉をそのまま受け入れました(6節)。
 信仰に生きるとは、神の言葉をそのまま受け入れるということです。アブラハムは私たちのお手本なのです。「信じる」と訳されたヘブライ語は、私たちが祈りの終わりに言う「アーメン」と関係している言葉です。「アーメン」とは、「本当にそうです」「確かです」「真実です」という意味ですから、信仰とは、神の言葉に「アーメン」と言うことです。
 創世記のアブラハム物語を読みますと、アブラハムは決して完全無欠な人ではないことが分かります。「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)のは、アブラハムが優秀で、立派であったからではなくて、神の言葉をそのまま受け入れたからです。
 義と認められるとは、神の前に恐れることなく出ることができることです。教会に生きる私たちにとっては、キリストを信じることによって、罪が赦されること、神を「わたしたちの父」と呼べる神の子とされることです。私たちは自分が神のもとにいることを知り、祝福されていると信じることができます。
 ところが思いがけないことが起こると、また事態が望んでいるようにならないと、自分が祝福されていないのではないか、自分が神にも人にも受け入れられていないのではないかと案じたりすることがあります。そのような者を、神は忍耐してくださり、決して裏切らず、変わらず、真実であられることを、信仰生活を続けていくと、何度も知らされます。そして、神の確かさによって、自分が確かにされることを経験していきます。
 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました」(8節)。創世記第12章3節が引用されています。神がハランの地にいたアブラハムを招かれた時、すでに異邦人を救うご計画があったのです。私たちもまた異邦人ですが、私たちの救いも、アブラハムを招かれたその時すでに、神の御意志として予定されていたというのです。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。3千数百年前に語られた祝福の約束は今も続いています。
 信仰に生きるとは、信仰によって「生きられる」こと。信仰があるから、神に逆らってばかりいる自分であり、世の中ですけれど、神の真実があるから生きていけます。さらに信仰によって「生かされる」こと。神の真実の中で、今日も神に生かされているのです。それこそが神の祝福です。