8月 8日(日) 聖霊降臨節第12主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 497
主の祈り
交読詩編 詩編67篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第3章6~14節
説 教 「呪いから祝福へ」
賛 美 452
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
前回と同じ聖書箇所ですが、前回は創世記を開いてアブラハムに与えられた祝福の約束を中心に見てまいりました。本日は、主に10節以下に集中します。
ガラテヤの信徒への手紙第3章13節「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。この御言葉を本当に理解できれば、私たちは祝福を確信することができます。日本語の「呪い」にはおどろおどろしい響きがありますが、聖書が語る「呪い」は神の祝福がないということです。祝福か呪いかどちらかで、中間はありません。
13節の「木にかけられた者は皆呪われている」は、旧約聖書の申命記第21章23節の引用です。キリストの教会は旧約聖書をキリストの福音の光の中で受けとめます。この聖書の言葉にキリストの十字架の出来事を重ね合わせて理解しました。
使徒パウロは、かつては教会の迫害者でした。そのときには、十字架にかけられたナザレのイエスは呪われた存在であって、その者を救い主(キリスト)だと言っている教会を許すことができず、根絶やしにしようとしました。ところが、パウロは復活の主イエスに出会い、イエスがキリストだと信じ、福音宣教者にされました。この聖書の言葉の理解も変えられました。キリストが木にかけられたのは、私たちを呪いから救うためであった、だからこそキリストが呪いとなられたのだ、と。
私たちは律法の呪いの中に閉じ込められている存在でした。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(10節)。現代の日本に住んでいる私たちは、ユダヤの律法にはなじみがありませんが、主イエスが、マタイ福音書第22章37~40節で語られた律法の要約(神を愛すること。隣人を自分のように愛すること)に、常に絶えず生きていたかと問われ、聖なる神に応えるならば「できませんでした」というほかない者です。ですから「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです」(11節)。
使徒パウロは、律法が不要であるとか、律法を批判しているのではなく、「律法の実行に頼る」ことを問題にしているのです。律法の実行に頼るというあり方は、他人を見下して自分を誇るようになり、自分で自分を義とするようになります。キリスト者であっても、神の恵みによって、信仰によって救われたところから離れると、信仰を持っていない人を受け入れなかったり、既得権があるように思ったりすることがあります。私たちが安易に、苦労なく過ごすとき、他者を排除していることはないでしょうか。
使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と語ります。笑い喜ぶ主イエスを間近にしたはずの使徒たちは、主イエスのご生涯を「苦しみを受け」というたった一言で言い表しました。救いとは、もっと深く激しく確かなことであるからです。
イザヤ書第53章の苦難の僕の姿に、教会はキリストを重ね合わせて理解してきました。十字架の主イエスも、尊厳は奪われ、人々に軽蔑され、捨てられ、ここに救い主がおられると誰も思っていなかったのです。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ」(イザヤ53:5)ました。
キリストが木にかけられ、呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださったのは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(14節)。私たちは神の祝福の中にいるのです。