8月15日(日) 聖霊降臨節第13主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 561
主の祈り
交読詩編 詩編85:9~14
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第3章15~18節
説 教 「神の恵みの約束」
賛 美 464
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」(15節前半)と語り出されています。「神に愛されている兄弟姉妹たちよ」ということです。続いて、アブラハムに与えられた神の契約は遺言のようなものなのだよ、と言うのです。「人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません」(15節後半)。遺言を、誰かが無効にしたり、加筆したりすることは、決して許されないことです。言い換えれば、誰もどうすることもできないのです。遺言には成すことが書かれていて、どうしてそうなのかという説明はありません。遺言は、書いた人が死んではじめて、その内容が知らされます。
アブラハムに与えられた神の契約は、遺言のようなものなのです。もちろん、神は死なれたのではありません。しかし、主イエス・キリストは十字架で死なれ、私たちの贖いとなり、私たちを律法の呪いから救い出してくださいました(ガラテヤ3:13より)。アブラハムに与えられた神の契約は、主イエス・キリストの十字架の救いの出来事によって、成就しました。
使徒パウロは、「わたしが言いたいのは、こうです」(17節前半)と、「これこそ知ってほしいことなのだ」と語ります。それは「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」。人の作った遺言でさえ、後から無効にすることなどないのだから、まして神の契約が後からできた律法によって無効になることなど決してないのです。考えてみれば当然のことです。契約は律法に優先しているのです。
「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです」(16節)。遺言のたとえはまだ分かりますが、この言葉は率直に言って難しいと感じます。しかし実は、使徒パウロのこの言葉を支える主イエスご自身の言葉があるのです。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。…はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8:56、58)。キリストは、神の独り子として永遠から永遠におられるお方です。アブラハムが神から約束を告げられた時すぐに、自分の子孫がキリスト(救い主)を指すと悟ったとは創世記に書かれていません。ですが、主イエスがはっきりと語っておられるのですから、信仰によって、霊によって、やがてアブラハムはキリストの日を悟ったのです。その理解を初代教会は共有していたからこそ、使徒パウロもこのように語ることができたのです。
「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」(18節)。遺言が、それを書いた人によって一方的に与えられるように、神の祝福の約束は、神の自由な意志によって、恵みによって、アブラハムに与えられました。アブラハムに約束された祝福は、わたしたちキリストを信じる者にも及ぶのです。「律法に由来する」とは律法によって救われようとすることです。そうではないのです。救いは神の恵みの約束に由来するのです。
約束を信じて生きる私たちに必要なものは何でしょう。ヘブライ人への手紙第6章12節「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしい」。アブラハムはお手本です。聖霊によって信仰と忍耐をいただいて歩みます。