8月22日(日) 聖霊降臨節第14主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美    211
主の祈り
交読詩編  詩編25:1~11
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第3章19~22節
説  教  「キリストの真実によって」
賛  美    430
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 最近『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』を読みました。この本では、日本には「世間」はあるが「社会」はなく、「個人」はいない、ヨーロッパ社会で「個人」を形成したのはキリスト教である、自分の罪を神に打ち明ける告解によって、人が自分の内面と向き合い「個人」が形成された、ということでした。
 今、ガラテヤの信徒への手紙は、福音の核心部分に入っております。先の本から「個人」を問われました。アブラハムは旧約聖書の創世記に登場する何千年も前の人ですが、生ける神の前に独り立ち、神の約束の言葉を信じ、祝福をいただきました。その姿に「個人」を見る思いがしました。私たちは、神と人との前で「イエスは主である」と信仰告白をして、洗礼を受けました。一人ひとり生ける神の前に立つということです。キリストを信じる人々は、アブラハムに与えられた祝福をいただけるのです。
 前回の説教で、この恵みの約束(契約)は、律法に優先すると語りました。契約も律法も神の御意志です。契約が律法に優先するのであれば、「では、律法とはいったい何か」(19節前半)という問いが出てきます。使徒パウロはその問いに応えます(19節後半)。律法は、約束された子孫、すなわちキリスト(ガラテヤ3:16より)が来られるときまで、という有効期限がありました。律法は「付け加えられたもの」なので、契約の本質を変えるものではありません。さらに「天使たちと仲介者(モーセ)の手を経た」ものですから、律法は「間接的に」与えられたものなのです。しかし「約束の場合は、神はひとりで事を運ばれたのです」(20節)。神は、自由に一方的にアブラハムに出会い、彼に約束をお与えになりました。律法は契約に並ぶものではないのです。
 そうすると「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか」(21節前半)という問いが出てきます。パウロは答えます。「決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」(21節後半)。律法には人を救う力はありませんでした。
 福音書を見ると、主イエスは、律法を守っていると自負しているファリサイ派の人々がいかに神の心から遠くなっているかを明らかにされました。自分を誇り、他人を見下していたからです。
 私たちはユダヤの律法はよく知りませんが、教会の中に、先の本にあるような「世間」は入り込んではいないでしょうか。信仰生活が長いとか、奉仕をたくさんしていると自分を誇り、人を分け隔てていることはないでしょうか。もしそうであれば、ユダヤの律法を知らなくても、同じ問題の中にいるのです。
 それは人の罪の問題だからです。19節には「律法は…違反を明らかにするため」とありました。こうして「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(22節前半)。この「すべてのもの」とは、被造物すべてを指しています。人間の罪は、お互いばかりでなく、被造物にも及びました。
 しかし、このことも大きな神の御支配の中にあったのです。「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(22節後半)。罪の世に神の約束が届いたのです。キリストがこの世に降って来てくださったからです。新しい協会共同訳聖書では、この「イエス・キリストへの信仰によって」が「イエス・キリストの真実によって」と訳されました。キリストは、私たちのために呪いとなることもいとわず、私たちを律法の呪いから、罪の支配下から解き放ち、救い出してくださいました(ガラテヤ3:13より)。私たちは、十字架の贖いにキリストの真実を見ます。この救いの恵みは、キリストを信じる人々に分け隔てなく与えられるのです。