9月 5日(日) 聖霊降臨節第16主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 205
主の祈り
交読詩編 詩編14篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第3章23~26節
説 教 「あなたがたは神の子」
賛 美 475
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
来年(2022年)のカレンダーの予約のお知らせが届き始めました。今年はオリ・パラのためいつもと違う祝日でした。祝日などは人が決められます。しかし人は、時を早く来たらせることも遅くすることもできません。時は神の御支配にあります。西暦は、神の子がこの世にお生まれになった出来事を起点にしています。
23節に「信仰が現れる前には」、また25節に「信仰が現れたので」とあります。このような言葉遣いを私たちはあまりしていませんが、使徒パウロは当然のように語っています。今日の聖書箇所で「信仰」と訳された言葉は、新しい聖書協会共同訳では「真実」と訳されました。「キリストの真実」という意味になります。(キリストの)真実が現れた、のです。キリストの真実も、キリストを信じる信仰も「現れる」、つまり神から来るのであり、決して人間から始まるものではありません。その真実はどこに現れたかというと、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。私たちはこの救いの出来事を信じて救われたのです。
今日の大切な御言葉は、26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。この「信仰により」にも、「(キリストの)真実により」という意味が込められています。「キリスト・イエスに結ばれて」とは「キリスト・イエスにあって」です。英語で言うと「in
Christ」。キリストの中にすっぽり包まれています。だから、神の目に、私たちは神の子なのです。神の子とは「神に愛されている者」です。主イエスは私たちに、神を「父よ」と呼ぶ祈りを教えてくださいました。29節を見ると、子とは相続人であることが分かります。神は、神の子たちに善きものを受け継がせてくださいます。私たちがそのことを心から信じることができれば、思い煩いから解き放たれ、神のもとで安らいで生きることができます。
このような大きな恵みの中で、私たちは神の言葉を通して、かつて自分がどこにいたのかを知るのです。「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」(23節)。22節にも「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」とあります。律法は神の御心を示すものですが、律法それ自体に人を救う力はありません。キリスト者でなくても「殺すな」は正しいと知っていますが、今この時にも、世界では人々の血が流されています。主イエスは、本当に人を殺さなくても、心の中で思うだけでも律法を犯していると指摘されました(マタイ5:22より)。
パウロは律法が「養育係となった」と、比喩を用いています。当時、知恵や経験に富んだ奴隷が、主人の跡取りの教育に携わることがありました。ですから養育係の務めは尊いのですが、奴隷ですから自由はなく、跡取りに力をふるうことはできない。そのように律法は尊いものですが、人を救う力はないのです。律法は神の御心ですが、私たちは自分の罪のために律法を守れず、かえって罪によって自分で自分を閉じ込めていたのでした。
旧約聖書を見ても、律法に従うことができなかったイスラエルの歴史を知ります。そこで神は民を救うため、新しい契約を結ぶと、預言者エレミヤに語られました(エレミヤ31:31~34)。その時が来れば、神は律法を心に記してくださるので人は神を知ることができる、神は民の罪を先立って赦してくださるという希望です。この約束を主イエスが実現してくださいました。「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)とあるとおり、生ける神の言(ことば)であるキリストが、聖霊として私たちの内におられます。ですから「信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」(25節)。