9月12日(日) 聖霊降臨節第17主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 463
主の祈り
交読詩編 詩編133篇
祈 祷 (含・敬老祝福の祈り)
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第3章26~29節
説 教 「キリストにおいて一つ」
賛 美 564
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。私たちが神の子であるとは、神に愛されている者、神の祝福を確信できるということです。それは「洗礼を受けてキリストに結ばれた」(27節)からです。
マルコ福音書第1章で、主イエスは洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられたとき「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:10~11)とあります。私たちが洗礼を受けた時にも、神は同じように語られたのです。その時だけでなく、今に至るまで神の目に私たちは「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」なのです。洗礼は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19)なさいという主イエスの命令に基づいています。「父と子と聖霊の名によって」とは、父と子と聖霊によってということ。洗礼は神の業、神の出来事なのです。
27節「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」のです。浸礼(しんれい)式の洗礼を行う教会があります(バプテスト教会など)。講壇の下に浴槽に似た洗礼槽が設けられていて、洗礼のときには、主イエスがヨルダン川に全身を水の中に浸されたのと同じように、水の中に沈んで、引き上げられるという洗礼です。そこから上がるときは水でびしょびしょになります。キリストを着るというイメージは、浸礼式の洗礼のように、キリストの恵みの中にとっぷりと浸されて、びしょぬれになっているようなことではないでしょうか。
私たちは、洗礼が神の出来事だと信じていますが、信仰のない人からすれば、ただの儀式だ、水を使って何の意味があるのか、と思われるかもしれません。しかし神の働きが見えてくるところがあるのです。それは、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(28節)ということです。今日の聖書箇所では「あなたがたは皆」と3度も繰り返されています。誰一人として例外はなく、皆が神の子なのだ、それは、皆がキリストを着ているということなのだ、それは皆が、キリストにおいて一つなのだ、というのです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。ここです。
昨日は米国同時多発テロから20年の日でした。現在アフガニスタンの政情は非常に案じられるものとなりました。「ユダヤ人もギリシア人も」から、民族や宗教の違いからくる差別・分断を思います。「奴隷も自由な身分の者も」からは、立場の違いからくる差別を思います。「男と女」、まさしく現代の課題です。
教会には、ユダヤ人キリスト者とギリシア人キリスト者がおり、奴隷の身分のキリスト者がおり、奴隷を使う自由な身分のキリスト者がおりました。男性の信徒も女性の信徒もおりました。誰一人例外なく、皆がキリストにおいて一つとされ、神を共に礼拝する群れが、地上に置かれていたのです。人間が一つになる道は、キリストによる救いしかないのです。教会でも差別があるではないか、という人もあるかもしれません。私たちは弱さを自覚しています。しかし、教会は、この神の約束に立ち、今このときも、その約束に基づいて礼拝を献げています。礼拝において、私たちはキリストにおいて一つという神の恵みを表しているのです。
洗礼を受けてキリストものとされた人は「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」です。信仰によってアブラハムの子孫とされて、神の祝福をいただける相続人とされました。それは死をも克服する祝福です。皆がその特権を受けることができ、そこにこそ人間の本当の幸せがあるのです。