9月19日(日) 聖霊降臨節第18主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美     6
主の祈り
交読詩編  詩編2篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第4章1~7節
説  教  「神の時が満ちて」
賛  美    271
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(4節)。この聖書の言葉は、クリスマスによく朗読されます。「女から…生まれた」とは、ユダヤ教的表現で「人間である」という意味です。神の御子が人としてお生まれになった、と告げているのです。「神の時が満ちて」、神であられる御子が「塵にすぎない」(詩編103:14)人間としてお生まれになったのです。
 さらに御子は「律法の下に」お生まれになりました。私たちは自分の犯した罪によって罪の支配下に閉じ込められていました(ガラテヤ3:22~23より)。人は罪を犯し、律法によって罪に定められ、その罪を償うことも、どうすることもできず、閉じ込められて、そこから出ることもできない状態でした。御子は、その律法の下にある私たちと同じところに降って来てくださったのです。同時に、律法は神の御意志ですから、御子が「律法の下に生まれた」とは、御子が神の御意志に適うように、つまり律法を満たすことによって、私たちを救うということです。その救いがどうしても必要でした。
 ユダヤ人社会でもローマ社会でも、一人前になる年齢がありました。だだ、絶対に守ってはいなかったようで、「父親が定めた期日まで」(2節)ということもありました。それまでは「未成年」(1節)です。未熟であって、責任が取れないから、相続人であっても奴隷と同じ立場なのです。その時が来たら、責任をとれる大人と認められ、父親によって「これは私の子なのだ」と公にできるのです。そういうイメージです。
 そのイメージを受けて、3節では「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」とあります。第4章10節には「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」とありますが、現代日本でも同じです。方角を気にしたり、姓名判断をしたり、コロナでアマビエが登場したりしています。キリストを信じるまでは、私たちも同様でした。
 しかし、神の時が満ちて、御子は世に降り、救いとなってくださいました。それは「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子」(5節)とするためです。ここでの「子」とは、神の子としての「子」です。ですから、本当に責任のある大人となるとは、御子キリストを信じて神の子にならせていただくことなのです。「贖い出す」とは、元は「奴隷を自由にするために代価を払って買い取る」という意味でした。私たちのために払われた代価は何でしょう。十字架にささげられたキリストの命です。
 そのことを思う時、軽々しく「自分は神の子だ」とは言えません。しかし一方で、「このような自分が神の子と言えない」というのも違うのではないでしょうか。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実」(6節)があるから、御子の霊と一緒になって、私たちは神を「アッバ、父よ」と呼べるのです。「アッバ」とはアラム語で「お父さん」という意味で、子どもが父親を呼ぶときの言葉です。恐らく主イエスがこのように祈られたので、アラム語のまま初代教会で使われていたと推測されています。「叫ぶ」とあります。叫ぶとは、心からほとばしり出ていることです。叫びが言葉にならないときにも神には届いています。キリスト者であっても、苦しみがあり、死にたくなるほど絶望することがあります。また今、コロナの災いのただ中にあります。しかし、何があっても、神の子とされた恵みは揺るぎません。私たちは「神によって立てられた」相続人だからです(7節)。