9月26日(日) 聖霊降臨節第19主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 546
主の祈り
交読詩編 詩編71:1~8
祈 祷
使徒信条
聖 書 出エジプト記第20章12節
説 教 「父母を敬え」
〔十戒による説教:第5戒〕
賛 美 470
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
十戒の第5の戒めは、「あなたの父母を敬え」です。この「敬う」は、旧約聖書では、神を敬う、あるいは王や祭司、預言者を敬うと、神的権威に用いられています。それに類するように、父母を敬え、とあるのです。単なる親孝行の教えではありません。改革者ルターは、父母は地上における神の代表者、神の大使である、言いました。「敬え」を直訳すると「重く扱え」です。この戒めには、制限がなく、条件がありません。いついかなる時でも、父母であれば、重く扱うことが求められています。そのようにして、私たちは神の権威に従うのです。聖書では、女性と子供は数に入れられていませんが、ここで、父と母が同じ重みをもっているのは、大きなことです。母もまた神を代表する存在なのです。
さらに、この戒めには、祝福の約束があることも特徴です。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。「主が与えられる土地に」です。狭い意味では、イスラエルの民が導かれる約束の地(カナン)を指しているでしょう。出エジプト記の文脈では、荒れ野で神が民に直接語りかけているのが十戒だからです。キリストの教会に生きる私たちにとって「主が与えられる土地」とは、地上のある場所ではなく、神の御支配であり、神が導かれるところです。自分が行きたいところではありません。そこで「長く生きることができる」。神の祝福の生涯は短いものではなく、長く生きるのです。それが神の約束であり、神の願いです。
創世記に登場するイサクやヤコブは、年を取って弱くなり、息子の顔も判別できないほどになっていても、力強く祝福しています(ヤコブの場合:創世記48章のヨセフとその息子たちへの祝福)。そこには神を代表する親の姿があります。
エフェソの信徒への手紙第6章の冒頭に、第5戒が引用されています。「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エフェソ6:2~4)。親の務めはまことに難しい。私の子供時代を振り返ると、怒ってばかり、いじけてばかりでありました。「この御言葉のとおりできました」と言い切れる親がいるのでしょうか。「主がしつけ諭されるように」です。親が主からしつけ諭されることなくして、子供を主がしつけ諭されるように育てることはできないでしょう。
十戒の前文をもう一度読みます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)。この御言葉は、大人も子供も、神の民のすべての世代に語られています。神の民すべての者たちが、神に救い出された、尊い一人ひとりなのです。まず神が、一人ひとりを重く扱い、救ってくださったのです。十戒は、それを守れば救われる、というのではなく、神によって救われて自由になった民の生きる道です。キリストの教会にとっては、罪と死の奴隷状態から、キリストの十字架によって救い出されたということ。キリストの命と引き換えに生かされている一人ひとり。そのように神から大切にされている自分であり、親であり、子であることを受けとめる。主の御言葉に聞き従って、主からしつけ諭されるのです。
第5戒は、権威に従う、秩序を守るという面から見ると、家庭では親、学校では教師、職場では上司、教会では牧師・役員会ということになるでしょう。権威が、秩序の中で正しいことを語るときに、私たちは聞き従って自分の責任を果たすのです。それがなければ、お互いが傷つき、共同体は成り立たなくなってしまいます。まことに古くても新しい、神の言葉です。