10月3日(日) 聖霊降臨節第20主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   351
主の祈り
交読詩編  詩編139:1~10
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第4章8~11節
説  教  「神から知られている」
賛  美    411
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 引退牧師のM先生のお父様の救いのお証を紹介します。お父様は、M先生の献身に猛反対し、M先生が神学校から、聖書や内村鑑三の本を送っても、それらはいつも本棚の端にありました。M先生が神学生であったとき、お父様は術後のがんが再発し、自宅療養となり、やがて耐え難い苦しみを訴えるようになりました。M先生が看病をした晩、お父様は、実はM先生が送っていた本を読んでいた、子供の頃教会の日曜学校に行っていた、神の子がなぜ苦しむのかが分からないと語り、M先生は聖霊の導きの中、キリストの十字架を語り、お父様は信仰を告白されました。その2週間後、お父様は救いを感謝して息を引きとられました。ご家族はお父様の変化を知っていましたので、キリスト教の葬儀に反対しなかったそうです。
 今日の聖書箇所の8節と9節には「『かつては』神を知らずに・・・『しかし今は』、神を知っている」とあります。私たちキリスト者には「かつては」という時がありました。「今」は神を知って生きているのです。先ほどのM先生のお父様の救いは、感動的でドラマチックなので、「自分はそうではない」という人もいると思いますが、それでも、神を知る生活とは、神を知らなかった生活とは異なるはずなのです。
 ただし、「神を知っている」とは、神についての知識を増やすことではないのです。自分の小さい頭で知っていることは、ほんのわずかです。以前、説教塾でエレミヤ書の研究で有名な先生の講演を伺いました。質疑応答で参加者から「エレミヤ書は嘆きもテーマの一つですが、ヨブ記についてはどうですか」との質問に「自分はヨブ記については何も言うことができない」とお応えになり、印象的でした。専門家こそ研究すればするほど分からない、そう言うのかもしれません。
 使徒パウロは続けてこう言っているのです。「今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」。神から知られていることこそ肝心なことなのです。神から知られていることを知っていることこそ、本当に「神を知っている」ことなのです。
 本日の交読詩編は詩編第139篇でした。これは、人がいかに神に知られているかを歌った詩編です。ここでは、後半の13節以下を読みたいと思います。生まれる前から私たちは神に知られており、胎児であった時にも見つめられていました。私たちの人生の日々はすべて神の書物に記録されているというのです。神のお計らいは数えきれない砂粒のように多く、その果てを究めたと思っても、実は神の御支配の中にいるのです。
 神に知られている自分を知ることこそ、本当に自分を知ることになります。私たちは神の子であり、神の相続人とならせていだいたのです(ガラテヤ4:7)。神が私たちのために心を用いて、神の愛の真ん中に置かれていると信じることができます。
 そのような恵みを受けたのに、またもや、この世界を支配していると思われる力に戻るのか、と、パウロはガラテヤの教会を心配して言っています。人は、何かを主(あるじ)にしないではいられず、まことの神を主にしなければ、別の力に走ってしまうことが分かります。M先生のお父様のように、本当の神の愛に満たされなければ、死を超える勇気を得ることはありません。恵みから離れたら、「無力で頼りにならない」(9節)、いつまでたっても満たされない、貧弱で内容のない生活になってしまう、とパウロは言っているのです。神の恵みによって生きるかどうか。神に知られる生活をするかどうか。それが崩れたら、キリストが十字架につかれたことが無駄になってしまう。それを心から恐れるというのです(10節)。