10月10日(日) 聖霊降臨節第21主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   11
主の祈り
交読詩編  詩編116篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第4章12~16節
説  教  「互いに受け入れ合う」
賛  美    529
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 今日の聖書の箇所を読みますと、ガラテヤ諸教会の人々と使徒パウロとの関係が崩れてしまっていることが示されます。ガラテヤの信徒への手紙は、キリストにしか救いはない、と伝えている聖書です。けれども同時に、当時の教会の状況、現実も書かざるを得なかったのです。それによって私たちは、キリストの教会とは何かということを知るのです。
 使徒パウロが、心から願っていること、どうしても必要なこととして伝えたのは「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください」(12節)です。「わたしのようになってください」とは、普通では言いにくいと思います。欠点も失敗も知られている自分ですから。これは、自分が立派だから真似をしなさい、ということではありません。「私がキリストに救われたのだから、あなたもキリストによって救われてください」ということです。これならば私たちキリスト者も言えるのです。なぜなら本当のことだからです。神の事実だからです。家族に言えるし、友にも言えるのです。教会はこれによって伝道するのです。パウロは、ガラテヤの諸教会の人々との関係の回復のために、ここに立ち帰ろう、と語っています。そうでなければ、教会が教会でなくなってしまうのです。
 使徒パウロは「わたしもあなたがたのようになったのですから」と語っています。これはどういうことでしょう。その思いを知るために、同じ使徒パウロが書いた、コリントの信徒への手紙一第9章19節以下を読みたいと思います。「・・・律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。・・・すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」。福音のために、救いのために、パウロは、ユダヤ人が誇りにしていた掟による生活を捨てて、ユダヤ人が軽蔑して一緒に食事もしなかった異邦人であるガラテヤ地方の人々の中に入っていきました。パウロは、自分の力や決心でそうできたのではありません。「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)との言葉の通り、キリストによって自由にされたから、パウロは、ガラテヤの人々と同じようになれたのです。
 「わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか」(16節)と言わざるを得ないほど崩れてしまったガラテヤの諸教会との関係を立て直すために、パウロは、神の恵みを知ったときのことを思い起こさせています。かつてお互いの関係はとても麗しいものでした。「わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(14節)。「あなたがたが味わっていた幸福」(15節)がありました。「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」というほどの愛がありました。
 「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(13節)とあるので、パウロは静養のためにガラテヤ地方に退いたところ、思いがけず福音を伝えることになり、信じる者の群れが生まれたのだと思われます。こうして病をも神は用いられるのです。人間的に良いと思われたり、また悪いと思われたりすることでも、神は自由にお用いになるのです。
 パウロは「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(コリント一11:1)とも語っています。キリストに倣う私の真似をしてください、つまり、キリストに倣いなさい、ということです。私たちは皆、主イエスの弟子として、イエス・キリストに従う者たちなのです。