10月17日(日) 聖霊降臨節第22主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   444
主の祈り
交読詩編  詩編1篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第4章16~20節
説  教  「キリストが形づくられるまで」
賛  美    474
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 日本の社会では、本当のことを率直に言うよりも、事を荒立てない方が望まれています。本当のことを言ったら相手が怒り出したり、関係が悪くなったりしたことを、私たちは経験していると思います。16節で「真理」とあるのは、一般的な事柄ではなくて、神の真理であり、言い換えれば信仰の事柄であり信仰の言葉です。人間がこれに付け加えたり、これを薄めたりすることは許されません。この真理を語るべく、教会は神の権威に基づいて説教者を立てています。真理が語られ聞かれるところこそ、教会です。しかし「これが真理だ」と言って「そうですか」と皆がすぐに素直に受け入れるなら、教会が苦労することはありません。真理だから伝わるかといえば、現実はそうではありません。皆様も「私は教会に行っています。礼拝に来てみませんか」と家族や友人に伝道しても、なかなか受け入れられないことを体験しています。
 使徒パウロがガラテヤ地方に、恐らく静養のために退いていたときには、その逆のことが起こったのでした。パウロは思いがけず福音を語り、その言葉が届いて、信じる者の群れであるキリストの教会が生まれました。パウロと信徒たちには麗しい愛の交わりがありました(ガラテヤ4:13~15)。真理が語られ、その言葉が真理として聞かれる教会があったのです。
 しかし「あの者たち」(17節)がガラテヤ地方の諸教会に入り込み、キリストの救いだけでは不十分で、律法を守らなければ救われないと教え、ガラテヤの教会の人々は誤ったその教えに引きずられ、パウロが真理を語っても届かなくなりました。「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか」(16節)の言葉に、パウロの苦悩が感じられます。
これは初代教会だけの問題ではなくて、現代の教会でも同じです。真理を真理として受け入れるか、問われています。
 19節で「わたしの子供たち」と、パウロは教会の信徒たちに呼びかけ、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と語ります。これは「私はかつてあなたがたの内にキリストが生まれるように苦闘した。キリストがお生まれになったはずなのに、今、キリストは生きていないではないか」ということです。危機的状況で、見過ごすことなどできません。伝道者の苦労は産みの苦しみなのです。ただのたとえではなく、本当に、私たちの中にキリストが生まれるという出来事が起こるのです。キリストの御支配の中に生かされるのです。そのために伝道者は苦しむのです。その苦しみを分かってほしいというよりも、「本当にあなたの内に、キリストが形づくられていますか」、言い換えれば「キリストが生まれていますか。キリストが生きて働いていますか」ということです。キリストが形づくられるとは、既に語られたとおり「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:20)、そして「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)ということです。
 コロナ禍で、世の中もそうですが、教会活動も大きな制約を受けて、変えざるを得なかったことがありました。コロナが終わったとき、今日の聖書の言葉を借りれば、キリストが形づくられていますか、キリストが生まれていますか、と問われると思います。その自己吟味が必要で、それは産みの苦しみを伴うことでしょう。人間的には苦しみを避けたいと思いますが、それは産みの苦しみですから、必ず実りをもたらします。
 「あなたがたのことで途方に暮れている」(20節)とは、自分は全くの無力である、ということです。これは「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ 18:27)ということなのです。