10月24日(日) 降誕前第9主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 543
主の祈り
交読詩編 詩編127篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第4章21~31節
説 教 「約束の子」
賛 美 459
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「聖書に何と書いてありますか」(30節)。初代教会でも現代の教会でも、最後にはここに立ち帰ります。ガラテヤの諸教会の危機的な状況とは「キリストの救いでは不十分で、律法を守らなければ救われない」という誤った教えに引きずり込まれていたことでした。この人たちは、神の言葉を無視してはおらず、神の言葉である律法を守ろうと熱心でした。しかし、本当には律法の言うことを正しく聞いていないので、使徒パウロは「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」(21節)と呼びかけます。聖書をキリストの恵みを見つけるようにして読まないと、私たちも、ガラテヤの教会の人々と同じ過ちを犯します。
パウロは創世記の出来事を語ります。アブラハムの妻サラには子供がなかったので、サラはアブラハムにハガルという女奴隷を与え、彼女からイシュマエルが生まれました。アブラハムとサラはイシュマエルによって家が繁栄すると考えていましたが、その後、神はアブラハムに現れて、サラとの間に生まれる子によって契約を立てると約束されました。彼は神の言葉を聞いて笑いました。そんなことはあり得えないと思い、信じられなかったからです。しかし神の約束のとおり、サラからイサクが生まれました。アブラハムとサラは大きな喜びをいただきました。
「女奴隷〔ハガル〕の子〔イシュマエル〕は肉によって生まれた」(23節)の、「肉によって」とは、人間の力で、自然の力で、ということです。それに対して、「自由な女〔サラ〕から生まれた子〔イサク〕は約束によって生まれた」(23節)の「約束によって」とは、神の力によって、信仰によって、神の恵みによって、ということです。さらに「これには、別の意味が隠されています」(24節)。その隠された意味を受け取ろうというのです。
まず、ハガルの方は「シナイ山に由来する契約」(24節)であるというのです。「シナイ山」とは、イスラエルの民に十戒を基とする律法が与えられた山です。それが「今のエルサレムに当たります」(25節)というのです。この場合の「エルサレム」は神殿を指しています。「ハガル」―「シナイ山」―「エルサレム」とは、掟を守ることによって救われようとする生き方、人間の力で、自然の力で生きようとする生き方です。地上のものに固執する。エルサレム神殿に固執する。それは奴隷となっている。つまり救われない、ついには滅びる、ということです。
「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です」(26節)。これがもう一つの契約です。「シナイ山」に相対するのは、キリストの十字架が立てられた「ゴルゴダの丘」でしょう。しかし、地上の場所に囚われないために、あえて書かれなかったのかもしれません。「天のエルサレム」は、天上の礼拝を中心として生きる生き方です。キリストによる神の恵みによって救われた者の生き方です。キリストの十字架と復活によって救われ、神の子とされ、自由にされた者たちは、天の父なる神を仰いで、神の右におられるキリストを仰いで生きる。エルサレムは神殿を指すと申しました。「天のエルサレム」、天の神殿の写しは、地上にある神の教会です。私たちは地上の特定の場所に囚われません。教会が神殿であり、救われた者たちは共に神を礼拝するのです。そのとき、27節で引用された預言者イザヤの言葉のように、神から与えられる喜びに生かされるのです。「わたしたちの母です」(26節)とは教会が母である、ということです。私たちは教会を通して福音を聞き、福音を信じて新しく生まれたのです。ですから「あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です」(28節)。私たちは、神を父と呼び、神に守られて安心して生きていける神の約束の子なのです。