10月31日(日) 降誕前第8主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編8篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章13節
説  教  「殺すな―否定の否定」
        〔十戒による説教:第6戒〕
賛  美   520
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 第6の戒めに入る前に、第5戒までを振り返りたいと思います。十戒の前半の5つの戒めは、神と人間との関係に焦点が当てられています。これについてカトリックのある神父の説き明かしに、とても教えられました。十戒の前半部分をご自分の言葉で言い換えておられるのです。第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、神を神とすることですから「相手を無視しない」。第3戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」は、神の名をみだりに唱えて冒瀆しないことですから「相手を馬鹿にしない」。第4戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」は、週の7日の1日は神に献げることですから、「相手のために時間をとる」。第5戒「あなたの父母を敬え」は、父母は地上で神の権威を代表している存在ですから、秩序の中で「相手が正しいことを言ったら聞く」。神との関係がこのように正しくされたら、私と隣人との関係も正しくされるのです。
 第6戒からは人間関係に焦点が当てられています。第6戒で問われている「殺す」とは、今語ったことを全部否定することです。相手を殺すとは、相手を無視する究極の形です。相手を全く馬鹿にしきることです。相手の時間、つまり、その人がこれから生きる時間を全て奪い取ることです。共に生きることなど全く考えず、相手の話を聞くことはない。「殺す」とは一切を奪い取る、本当にひどいことなのです。
 今日のこの第6の戒めとの関連でヨハネの手紙一第3章11節以下を読みます。ここで創世記第4章の、弟アベルを殺してしまったカインが出てきます。カインは自分が正しい、弟の方が間違っていると思ったのでしょう。私たちはカインを理解できるのです。人と比べて、人をうらやむ、ねたむ、それが高じると人を憎む、怒りが燃え上がる。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(ヨハネ一3:15)。たとえ、実際の殺人行為に及ばなくても、相手を憎むその心を聖書は問うのです。インターネットのSNSでも、身近な学校や職場、地域や教会でも、相手を無視する、馬鹿にするなら、相手は居場所を失い、生きていくことができなくなります。なぜなら人間の命は、ただ体だけが生きている命ではなく、関係の中に生かされる命だからです。
 本来、神が造られた命は神に愛されて、そして神に応えて、それを喜びとする命です。隣人を愛し、隣人に愛されてそれを喜びとして生きる命に造られています。それが否定され、奪われるとき、私たちは居場所を失ってしまうのです。
 神は命を肯定されます。存在を肯定されます。あなたはそこにいるだけでいい、あなたの命は神に造られたかけがえのない尊いものであるということ。それを受け入れることです。
 私たちにそのように語り、そのようにしてくださった主イエスは、無視されて、馬鹿にされて、語る言葉も聞かれないで、人々は主イエスを十字架に追いやり殺しました。人の目から見ればそうであった、そのイエスの十字架に、神の救いの御計画がありました。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネ一3:16)。主イエスは復活し、罪と死に勝利されたことにより、神の愛が十字架で挫折どころか全うされ、私たちはどこまでも神に愛されていることを知りました。
 「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(ヨハネ一3:16~17)。私たちは、神からいただいたものを献げ、分かち合って、隣人と共に生きるのです。