11月7日(日) 降誕前第7主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   385
主の祈り
交読詩編  詩編27:1~6
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第4章28節~第5章1節
説  教  「本当に自由になる」
賛  美   531
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 今日の記念礼拝では故人のお写真を飾っていますが、この中にはがんになったので礼拝に来られた方々が何人もおられます。意識していたか、あるいは無意識でも、この方々は「死よりも確かなものはないのか」という切実な問いを持っておられた、と私は思っています。教会は「死よりも確かなものがある」と答えます。「罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)」(使徒信条より)、キリストの福音によって与えられる神の恵みです。神が与えてくださる自由は、私たちが避けられない死の束縛からも解き放ってくださる自由です。
 死ぬのは確かなことです。ここにおられる誰もが死を免れません。しかし、自分が必ず死ぬことを置き去りにして、しなければならないことにあくせくしていることが多いのではないでしょうか。いつもの生活、人間関係、置かれた状況が、変わらずに続くと思い込んでいるのではないでしょうか。それが、突然の家族の死や、怪我や病気、また災難に遭うことなどによって―このコロナ禍もそうです―自分や家族の命も生活も、人間関係も不確かなもので、変わらずに続けられる保証はないということを知らされます。多かれ少なかれ経験していると思います。
 聖書は語っています。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15:32)。教会は地上の死が終わりではないと知っています。神が与えてくださる永遠の命が約束されていて、私たちはその永遠の命を先取りするようにして、今、生きることができます。地上の生涯を終えたのちは、死も悲しみも嘆きも労苦もない祝福に満ちた命によみがえるという希望があります(ヨハネ黙示録21:4より)。この神の命の賜物は、死よりも強く、死を超えていくもの、死から自由にさせる神の恵みなのだと、私たちは知っているのです。
 主イエスご自身がこう語っておられます。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。・・・もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:32、36)。私たちは自分で自分を自由にすることはできません。真理とは神の救いです。自分の欲望から、自分の力で生きようとすることから、罪と死からの救いです。救われれば本当に自由になる。キリストが自由を得させてくださるのです。
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ第5章1節前半)。この力強い言葉に続いて、使徒パウロは、ガラテヤの教会の人々に次のように言わなければなりませんでした「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません」(1節後半)。キリストの救いでは不十分で、律法を守らなければ救われないという考えに囚われてしまっていたガラテヤの教会でした。しかし、私たちも他人事ではありません。どうすれば、奴隷の軛につながれないで生きられるのでしょう。
 主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。奴隷の軛ではなく、主イエスの軛を負うことです。軛は「束縛」の象徴でもありますが、主の軛は負いやすいのです。なぜなら主に救われた感謝と喜びがあるからです。軛はよく仕事ができるために負うものでもあります。主の軛を負うとは「わたしに学べ」、つまり、主イエスの真似をして、主イエスに従って生きることなのです。