11月14日(日) 降誕前第6主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   564
主の祈り
交読詩編  詩編34:1~11
祈  祷
使徒信条
聖  書   コリント信徒への手紙二第6章1~10節
説  教  「神の逆説を、今、生きる」
賛  美   402
成長祝福式  105
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

※成長祝福式は礼拝音声ではカットしています

説教要旨

 8節にこういう言葉があります。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです」。「そうしているのです」とは、その前の4節「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」ということです。神に仕える者として、存在を持ってその本領を発揮しているのです、とこの手紙を書いた使徒パウロが語っています。子供も、友だちが自分を何と言ってるか、とても気になります。私たち大人も評判をとても気にしていると思います。しかし、パウロはどんな評判にも振り回されない。そこから自由なのです。私たちは子供たちにもそういう自由に生きてほしいのではないでしょうか。友だちや、先生や、親の顔色を伺って、それによって自分の生き方を決めるのではないのです。
 初代教会の時代、厳しい状況がありました。「大いなる忍耐をもって」。「大いなる」は原文では「数が多い」という意味です。パウロに偉大な忍耐力があったというより、忍耐しなければならないことが数々あったのです。それは私たちも同じです。その後に続く言葉が、恐らく忍耐しなければならなかった事柄でしょう。「苦難、欠乏、行き詰まり」、これは私たちもありますけれど、「鞭打ち、監禁、暴動」はないでしょう。「不眠、飢餓」もありました。
 そのような苦境に何をもって戦うか。まず「純真」。これは「純潔」とも訳せます。何よりも性生活において清いことです。そうでなければ神の僕としての実を示せないのです。性において歯止めのないこの国のあり方に対して、聖書は全く逆のことを言っています。聖霊の助けによってでなければ純潔に生きることはできません。その次の「知識」は神の言葉の知識です。次に「寛容、親切、聖霊、偽りのない愛」。対人関係です。「聖霊」とありますが、これはこの文脈から恐らくパウロ自身の霊で、英語で言うとspiritです(神の聖霊は大文字で始まるSpiritになります)。聖霊によって聖化されたパウロの霊です。霊によって戦うのです。続く「真理の言葉」は説教を指しているでしょう。最後に「神の力によってそうしている」。パウロ自身に備わっている神の力です。
 ここに挙げられている賜物は、どこからが神のもので、どこからがパウロのものかという境界線は、はっきりしていません。パウロの存在そのものに、神の愛、神の清さ、神の言葉、神の力が満たされて、与えられたものを自覚的に発揮しているのです。
 7節「左右の手に義の武器を持ち」。これはパウロが義とされていること、それによってこの世の不義と戦うことです。パウロは、本当に哀れな罪人の自分を深く自覚しているからこそ、義とされたとは、全くの一方的な神の恵みであり、その神の力によって世と戦いました。
「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており」(9節)。「このように生きており」は、原文では、8節後半から10節にかけての言葉遣いを断ち切るように、「見よ! 私たちは生きている!」と言っているのです。「死にかかっている」とは見せかけではありません。パウロは病気も持っていましたし、鞭打ちとか監禁とかで身体的に痛めつけられることもありました。そのように死に向かっている私を、キリストのよみがえりの命が生かしているから、「私たちは生きている!」。驚きつつ、喜びの叫びをあげている。
ですから第6章1節で、神からいただいた恵みを受け取り損なうな、この恵みをしっかり覚えて生きなさい、とパウロは語っているのです。私たちは厳しい人間の現実を生きていると同時に、そこから自由に生かしてくださる聖霊の現実の中を生きています。今は恵みの時、今こそ救いの日ですから(2節)。