11月21日(日) 降誕前第5主日・謝恩日・収穫感謝日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   377
主の祈り
交読詩編  詩編149篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第5章1~6節
説  教  「希望の実現を待ちつつ」
賛  美   509
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 来週28日から待降節(アドベント)に入ります。アドベントはクリスマスに備える期間ですが、再び来られる再臨のキリストをいっそう深く待ち望み、悔い改めに生きる期間です。
 「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」(5節)。この短い箇所に「希望」を「待ち望む」と繰り返されています。また私たちが「義とされた」ということも、希望の約束です。
 ある方から「年を取って、病気になって、体が動かなくなって、人のお世話になるばかりで、何の望みもありません・・・」という嘆きの言葉を聞きました。またこの国には、10代、20代の若者の中に希望が見えない、希望が感じられないという人がたくさんいます。若者でも、中高年でも、高齢者でも、現代のこの国で、体のこと、家族のこと、経済のことなどで、希望を挫くような現実を数えるのは、いとも簡単なことです。コロナのため、昨年は約2ヶ月、礼拝堂に集まることを断念したことがありました。そのような時でも、教会はこの御言葉のような希望に生きられるのか、問われていると思います。聖霊によらなければこの希望には生きられないことを強く思います。
 「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(2節)。割礼を受けるとは、自分の体に傷をつけることです。見て分かる現実のことです。ですから希望する必要はありません。現代のこの国に生きる私たちは、割礼や律法で救われようとはしませんが、行いによって「義とされようとする」(4節)ような生き方は教会にも入り込んでいます。身近な言い方をすれば「完全主義者」、「こうしなければ気が済まない」人です。私たちは皆ある程度そういうところがあります。しかし、やり通せないので「まあ、いいや」と自分で自分を許します。けれども気が済まない人は完璧を求めていきます。同じようにしない人には腹を立てます。人を裁きます。そういう人は自分の力でできると思っているので、希望には生きていないのです。実際には、自分も人も追い込み、苦しめ、生かすことができない。そういうことが教会にも入り込んでいます。自分の行いで認められようとするのです。言葉では「神様、聖霊」と言っていても、本当に希望の実現を待ち望んで生きているのか、と案じられる人がいないわけではないのです。
 「義とされた者」(5節)とはどういうことでしょう。ヨハネによる福音書第20章19節以下を読みます。ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちに、よみがえられた主イエスがその部屋に入って来られ「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19、21)、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:22~23)と言ってくださいました。十字架を前に、弟子たちは、師である主イエスを見捨てて逃げるという取り返しのつかないことをしました。自分から希望を持つことなどできない状態でした。その弟子たちに、復活の主イエスが出会って、「あなたがたは罪を赦されたのだから、罪の赦しの福音を告げ知らせなさい」と命じられたのです。希望は外から来ます。主から来ます。希望を持つことなどできないところに、主が希望をもたらしてくださいます。「義とされた者」とは、愛されている者、赦されている者、丸ごと受け入れられている者、神に喜ばれる者です。現実の自分を見るなら、まことに愛のない哀れな罪人です。その罪人を、キリストは命を献げるほどに愛して、聖霊による希望の約束をくださるのです。それは誰も奪うことができない確かな希望なのです。