11月28日(日) 降誕前第4主日・アドベント第1主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 242(1節)
主の祈り
交読詩編 詩編11篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第5章6~7節
説 教 「愛の実践を伴う信仰」
賛 美 475
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
「キリスト・イエスに結ばれていれば」。これは言い換えればキリストとの交わりを持っているということです。そのことを私たちはよく分かっているのでしょうか。
先日、コロナのため2年ぶりに開催された埼玉地区「牧師夫人と女性教職の会」に出席しました。出会いを喜び、共に礼拝を献げ、学び合いました。顔と顔を合わせる交わりはとてもうれしいものでした。このように、私たちは教会の交わり、家族の交わり、職場、学校、地域などの人間関係があります。私たちは交わりの中で生きています。
キリスト・イエスは目に見えません。手で触れることも、人に見せることもできません。そのキリストと交わりを持つために、大切なのは信仰だというのです。6節の「割礼の有無は問題ではなく」「愛の実践を伴う」を、まずカッコに入れて読んでください。キリストとの交わりは、キリストに愛され、キリストを愛する、愛の交わりです。キリストに愛されていると、信じているのです。信仰がなければ、その愛がどうして私たちに分かるでしょうか。
キリストとの愛の交わりに生きるためには「割礼の有無は問題ではなく」なるということなのです。割礼が有ろうが、無かろうが、キリストとの交わりには関係がなく、役に立つことでもないのです。例えば、キリストが割礼の有る人をよりいっそう愛するのでしょうか。そんなことは決してありません。
月刊「信徒の友」11月号の特集が「ユダヤ教を知ろう」で、そこに、日本で暮らすユダヤ教のラビ(教師)へのインタビュー記事が載っていました。この方は他の人には寛容ですが、ご自分は厳格に戒律を守っています。「ヒゲをそられるならば死を選ぶ」という言葉を読んで、改めて律法を守ることは死活問題なのだと感じました。熱心なファリサイ派として生きてきた使徒パウロですから、割礼の有無は大問題であったはずです。安息日も、律法を守ることも死活問題であったはずです。それほどのことであっても、キリストとの愛の交わりについては、割礼も律法も安息日も、全く関係ない、ということなのです。
今、教会に生きる私たちにとって、割礼などは縁遠いものと思いますが、人間の力でキリストとの交わりを強めようと思っていたならば、同じ過ちを犯します。心のどこかで「わたしの信仰が足りない…」と思っているので、「愛の実践を伴う信仰」と読むと、「ああそうだ。私の信仰には愛が足りない、愛がなければだめなのだ」と思う。それならば人間の力でキリストとの交わりを強めようとすることで、愛は手段となってしまいます。それは愛とは言えません。そうではなくて、大切なのはただ信仰なのです。
キリストに愛されていることを信じ、キリストを愛して生きるとは、キリストに従うことです。キリストに従うとは、キリストの真似をして生きる、キリストをお手本として生きることですから、信仰はおのずから愛の実践を伴うことになるのです。それが6節の意味です。
本来は、教会こそが互いに愛し合うという愛の交わりが実現するはずですが、残念ながら、ガラテヤの教会が叱責されている現実は、現代の教会にも入り込んでいます。キリストによってどんなに大きな罪が赦されているか、それほどまでに神に愛されていることを知り、それが全くの一方的な神の恵みであることを知った人から、愛に生き始めるほかないでしょう。説教の準備をしていて、素晴らしい言葉に出会いました。これを紹介して終わります。「生きることは愛することである。愛することは理解することである。理解することは赦すことである。赦すことは赦されることである。赦されることは救われることである」。