12月 5日(日) 降誕前第3主日・アドベント第2主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   242(1・2節)
主の祈り
交読詩編  詩編149篇
祈  祷
使徒信条
聖  書   ガラテヤの信徒への手紙第5章7~12節
説  教  「苦しみつつ喜んで」
賛  美   532
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「あなたがたは、よく走っていました」(7節)。「走る」とは正しい信仰生活を送っていることを示しています。その関連で思い出されるのは、ヘブライ人への手紙第12章1~2節の言葉でしょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。マラソンのイメージです。ひたすら主イエスを見つめて走ります。独りきりで走るのではなく、雲のような証人たちに囲まれており、キリストはゴールであると同時に共にいてくださり、共に走る仲間がいるのです。
 ところがガラテヤの教会に、これを止める邪魔者が入って来たというのです(7節より)。もちろん、それは神からのことではありません(8節より)。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」(9節)と警告されています。少しくらい真理に従わなくてもよいだろうという考えは、教会全体を危機に導きます。この手紙を書いた使徒パウロは、主を信じて「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています」(10節)と語ります。さらに、あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます」と厳しい言葉があります。それは神に逆らうことだからです。
 「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」(11節)。使徒パウロが迫害を受けているのは、割礼を宣べ伝えているからではなく、十字架のキリストを宣べ伝えているからなのです。それは十字架のつまずきがあるからです。
 「十字架のつまずき」とは不思議なことです。キリストの十字架こそ救いですが、その十字架がかえって人々をつまずかせるものなのです。その関連でコリントの信徒への手紙一第1章22節以下を読みます。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(コリント一1:22~24)。
 使徒パウロ、また初代教会の主イエスの弟子たちは「十字架にかけられたナザレのイエスこそ、神からの救い主(キリスト)である。キリストは死に勝利して復活し、今も生きておられる」と宣べ伝えました。ユダヤ人が期待していたのは、ローマの支配から解放して自分たちの国を復興させてくれる救い主でしたから、ローマに処刑されたイエスが救い主とは、我慢ならない腹立たしいことでした(「つまずき」には「腹を立てる」という意味が含まれています)。「ギリシア人」とはユダヤ人以外の外国人、つまり「異邦人」です。使徒言行録には、死者の復活と聞くと人々があざ笑ったとあります(使徒17:32)。十字架と復活の福音は人々をつまずかせるものなのです。私たちが今、十字架と復活の福音を信じているのは、それがつまずきであると知ったうえで、信じているのです。十字架は、人々の罪がイエスを十字架に追いやったこと、つまり、私たちが罪人であることを示すと同時に、主イエスが十字架からお逃げにならなかったこと、つまり、罪人をどこまでも愛し、すべての罪を負い、命を献げて私たち人間の罪の贖いとなり、罪を赦してくださったキリストの愛を示すものだからです。ですから私たちはキリストの福音を宣べ伝えるのです。