12月12日(日) 降誕前第2主日・アドベント第3主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 242(1~3節)
主の祈り
交読詩編 詩編100篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第5章13~15節
説 教 「キリストにある自由と愛」
賛 美 483
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
一般的に「自由」とは、何にも束縛されないことである、と考えられています。しかし、ガラテヤの信徒への手紙によって知らされた「自由」とは、キリストの救いによって、私たちの存在そのものが罪と死から解き放たれたことであり、根源的なものです。「愛によって互いに仕えなさい」(13節)と、私たちの歩むべき道が積極的に示されています。キリストによって与えられた自由は、愛によって互いに仕えるために用いるのです。
この秋、私たちはミャンマー農村のための募金を、アジア学院を通してお献げしました。アジア学院は持続可能な農業の農村指導者を養成する学校です。その理念の一つに「サーバント・リーダーシップ」(仕える指導者)があります。以前、アジア学院の通信にこんな記事がありました。途上国からくる学生の中には(その国では高い教育を受けているエリートなので)「雑事などできるか」という態度の人もいます。しかし日本人スタッフの、掃除や食器洗いなどを率先して行う姿を見て、心が変えられて、仕えるリーダーとなっていった、というのです。互いに仕えるとは、頭で考えることではなく、それを生きることです。
私たちにとって、模範は主イエス・キリストです。ヨハネによる福音書第13章1節以下を読みます。主イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれて、なさったことは、弟子たち一人一人の足を洗うことでした。当時、パレスチナではサンダル履きで、足は土だらけになります。足を洗うのは奴隷の仕事でした。それを主イエスがなさったのですから、弟子たちには大変な驚きであり、ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったほどでした。イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハネ13:8)と言われました。主イエスと私との関わりは、主イエスに足を洗っていただくところに始まるのです。主イエスは弟子たちに「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:14~15)と言われました。足を洗うとはしるしです。主イエスに足を洗っていただくとは、主イエスによって、罪を洗い清めていただくこと、罪を赦していただくことを示しています。主イエスに足を差し出すように、私たちは罪あるままの自分を差し出して、主イエスの十字架によって、罪を赦されました。そのように主イエスにどこまでも愛されて、受け入れられましたから、こう命じられています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
本日の聖書箇所に戻ります。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。…律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(13~14節)。ガラテヤの信徒への手紙を読み続けて、私たちは、律法の行いによって救われるのではなく、キリストの恵みによって救われるということを知りました。しかしそれは、律法そのものの否定ではありません。救われた者の生き方としての律法という新しい理解が、ここに示されているのです。どこか遠い人ではなく「隣人」です。最も近い人は、自分をよく知っている人です。欠点も、今まで何をしてきたかも、知られています。「自分のように」とありますが、振り返ると、いつも自分中心、自分優先の自分であることを思います。その自分と同じように隣人を愛することは、人間の力ではできません。ですから、この後の16節以下は、聖霊の導きへと展開していくのです。