12月19日(日) 降誕前第1主日・アドベント第4主日
クリスマス礼拝順序

黙  祷
賛  美   242
主の祈り
交読詩編  詩編2篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ヨハネによる福音書第1章14節
説  教  「神は自ら人と共に」
賛  美   260
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

(※ 礼拝音声は、聖餐部分はカットしています)

説教要旨

 神の子キリストは、人としてお生まれになりました。救い主がお生まれになった。それがクリスマスです。ヨハネによる福音書はこのことを「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)と表現しました。ヨハネ福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3節)とあります。言(ことば)であるキリストは、天地万物の造り主です。今、私たちは希望を持ってクリスマス礼拝を献げていますが、大半の人々は礼拝に来ません。その人々もキリストによって造られました。キリストと無関係な人は一人もおりません。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4~5節)。造り主であり命の光である方が、「肉となって」、つまり、私たち人間と同じ姿になられて、「わたしたちの間に」、つまり、この地上に、歴史の中に、人間の世界に、「宿られた」、来てくださったというのです。造り主が人となられたのです。
 「宿る」という言葉には、テントを張る、テントに住む、という意味があります。聖書では、羊や山羊を飼う遊牧の人々が登場します。その人々は家畜を養うためにテント暮らしで、身近な存在でした。しかし、貧しくても家で暮らしている人もあり、宮殿や立派な建物に暮らす人もいましたのに、キリストはテントに住むように、この地上においでになったというのです。ここに、キリストの謙遜を見ることができます。
 また、戦争の時、最前線の近くにいる兵士がテントを張って過ごすことがあります。決して命を落としてはならない将軍や王は最前線には出て行かないでしょう。キリストは、自らすぐに戦いに出られる兵士のようにして、来てくださった。私たちのために戦ってくださるのです。
 さらに、テントを張るというと、荒れ野の幕屋(テント)が思い起こされます。かつて、エジプトの国で奴隷であった神の民・イスラエルの人々を、神はエジプトから脱出させ、救い出してくださいました。約束の地を目指して荒れ野を旅する民のために、神は指導者モーセに幕屋を作るように命じました。その幕屋は民の宿営の中心に置かれます。神は幕屋に臨在され、民は幕屋で神を礼拝します。幕屋は聖所だからです。聖書でいう「栄光」とは、神が神であられることです。幕屋は神の臨在のしるしでした。幕屋を見ることが、神の栄光を見ることでした。私たちは、キリストに神の栄光を見ることができます。幕屋が民のただ中に置かれたように、キリストは私たちの間に来てくださいました。「恵みと真理に満ちていた」とは、私たちを救う力に満ちておられるということです。
 テントは一時的なもので、永遠のものではありません。キリストがイエスとして地上の生涯を歩まれたのは、30数年でした。神のもとから来て、神のもとに帰られる。キリストは私たちを、神のもとに連れて行ってくださいます。
 本日は主の食卓が備えられています。同じヨハネ福音書から主イエスの御言葉を聞きましょう。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)。「肉となって」とは、キリストがご自身をパンとして差し出して、私たちを生かすためでもありました。私たちは体をもって、主の恵みを味わいましょう。