12月26日(日) 降誕節第1主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   271
主の祈り
交読詩編  詩編46篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章14節
説  教  「清らかな心で」
        〔十戒による説教:第7戒〕
賛  美   267
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 十戒は、キリストの教会に生きる私たちにとっては、罪と死から救われた者として生きるべき道です。前半の5つの戒めは神との関係に、後半の戒めは隣人との関係に焦点が当てられています。第6戒「殺してはならない」(13節)と異なり、第7戒「姦淫してはならない」(14節)は、結婚関係が前提です。姦淫は結婚を破壊する、あってはならない罪です。結婚は神が定められ、それゆえに聖なるものであるからです。信仰がなければ、とうてい受け入れられないことだと思います。本日はまず神が結婚をどのように定められたのか、聖書から見ていきたいと思います。
 創世記第2章18節以下を読みます。神は、人のあばら骨の一部から女を造られました。人のところへ女を連れて行くと、人は「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と声を上げました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)。男も女も神がお造りになりました。二人は父と母から独立して、お互いを助け手として受け入れ、新しい関係を生きるよう、神が結婚をお定めになりました。
 この創世記第2章24節が、新約聖書のエフェソの信徒への手紙第5章28節で引用されています。25節から読みます。「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった…教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせ…」(エフェソ5:25~27)。結婚関係は、キリストと教会のようである、というのです(エフェソ5:31~32より)。教会である私たちを省みれば、花婿キリストに対して、まことに不従順で頑固な妻です。しみやしわもあり、体は衰えていきます。キリストがご自分の十字架の血潮によって教会を洗い清め栄光に輝く花嫁として立たせてくださるとは、霊的な現実であり、決して揺らぐことはありません。「わたしたちは、キリストの体の一部」(エフェソ5:30)です。キリストの救いに与った私たちは、御言葉に根差して結婚を重んじます。
 コリントの信徒への手紙一第6章19~20節を見ると、キリストの命という代価が払われたので、私たちの体は聖霊が宿ってくださる神殿であり、存在そのものが聖なるものとされた、とあります。さらに、同じ手紙の第7章14節には、「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている…あなたがたの子供たちは…聖なる者です」との約束があります。神は、家庭の中にいるキリスト者によって、家族を聖なるものと見てくださっています。自分自身も家庭も聖なるもの。それを信仰によって受けとめることです。結婚関係もそこから始まります。
 主イエスも創世記第2章24節を引用されました。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。…それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:4~6)。相手を「神が結び合わせてくださった」として受け入れることも、信仰がなければできません。夫と妻が一体となる関係のもとで、神によって授けられた子どもは安心して養われるのです。
 「実際に、姦淫はしていないから、この戒めには関係がない」と言う人もあるでしょう。しかし主イエスはこう言われました。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)。罪は、心の中で始まっています。この厳しい教えの前に、聖なる主の前に、何の申し開きもできない自分を示されます。