1月2日(日) 降誕節第2主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   368
主の祈り
交読詩編  詩編51:12~19
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第5章16~21節
説  教  「本来の自分を生きる」
賛  美   342
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい」(16節)。口語訳聖書では「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。命じると言うほどに強い言葉です。ガラテヤの信徒への手紙は、キリストの救いによって私たちは罪と死から解放され自由を得た、と語りました。自由にされた私たちはどう生きるのでしょう。13節には「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに」とあります。そのままでは自由が罪を犯させる機会となり得るから、聖霊の導きに従うことが必要なのです。
 この関連で、コリントの信徒への手紙一第2章9節以下を読みます。「『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』…わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。…神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(コリント一2:9~11)。神の出来事は、私たちが見たことや聞いたことや心に思い浮かぶことができるようなものではないのです。先週、K先生から「主からの恵み三六六日」という本が届きました。思いがけなくうれしく、予測などとうていできないことでした。人間関係においても、このように思いがけない出来事があり、私たちが分かっていることはほんの少しなのです。まして神のなさることは、神の霊によって初めて分かるのです。聖霊の導きに従うとは、生まれたままの人間にはできません。
 聖霊に従わないならば、どのようになるのでしょう。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する…肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができない」(17節)とあります。生きるためには食欲も必要ですし、性欲も、知識欲などもあります。禁欲が求められているのではなく、神の御心に反するような仕方でその欲を使うことが問題なのです。この関連でローマの信徒への手紙第7章19節以下を読みます。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:19~20、24)。先週、2021年を振り返るラジオ番組で、若者の自死が多くなったことを聴き、心を痛めました。現代日本においても、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という中にうめく魂がたくさんあります。本来の自分を生きられない苦しみ、葛藤があります。キリスト者であっても、聖霊に導かれていなければ同様です。私たちは、御言葉の光に照らされて初めて、自分の内に肉と霊とが対立していることを知り、それは罪のためであると知ったのです。この惨めさのただ中にイエス・キリストの救いが来たのです。キリストは、私たちよりも、もっと惨めな十字架に身を置いて、救いとなってくださったのです。ですから、私たちは自分の罪を言い表し、悔い改めて、聖霊に導かれて生きることができます。
 「霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」(17節)。ここで「律法の下に」とは自分の力で救われようとすることです。私たちはキリストの恵みの下にいるのです。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)。私たちは祈ることさえ知らないほど弱いのです。その弱い私たちを、聖霊は助けて、執り成してくださるのです。こんなに確かな保証はありません。ですから聖霊に導かれて生きることができるのです。霊と肉との対立ではなく、調和して生きることができるのです。