1月9日(日) 降誕節第3主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   58
主の祈り
交読詩編  詩編62篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第5章22~26節
説  教  「実を結ぶ人生とは」
賛  美   411
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 本日の聖書箇所は、「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5:16)という、使徒パウロが使徒の権威をもって命じている言葉に続くものです。
 ヨハネ福音書第3章で、主イエスがユダヤ人の議員のニコデモに、聖霊の働きを次のように語っておられます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)。私たちは風を感じることはできても、どこから来てどこへ行くのか分かりません。神の霊の働きも同様です。神の自由な御意志によって、聖霊はお働きになり、人は神の霊の出来事を見極めることはできないのです。
 そのような限りある私たち一人一人に、そして教会に、聖霊は、霊の実を結ばせてくださいます。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です(22~23節)。「愛」が、それ以下に続く聖霊の実の基礎であり、源であると言えるでしょう。
 「愛、喜び、平和」を理解するために、ローマの信徒への手紙第5章1節以下を読みます。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)。愛とは神の愛です。私たちは神に愛されている。私たちも神を愛する。その愛も聖霊からいただいたものです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。平和とは、争いや戦いがないことよりも、神との間の平和です。私たちはキリストを信じ救われ、神の敵であったのに(ローマ5:10より)、神と和解し、神の子とされ、神との間に平和を得ました。自分を責め、自分を赦すことができなかったのに、神に愛され受け入れられている自分を知ると、信仰によって自分を受け入れることができるようにされます。さらに、隣人も神に愛されている人として受け入れられるようになり、隣人との間に平和が生まれてきます。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(ローマ5:2~3)。ここで「誇りとします」は「喜びます」と言い換えられます。信仰によって希望が与えられているからこそ、苦難さえ喜ぶことができる。それは聖霊に支配されているところから来る喜びです。
 「寛容、親切、善意」(22節)も隣人との関わりにおけるものです。「誠実」(22節)とは、何があっても、誰が見ても見ていなくても、神の前に忠実に生きる。「柔和、節制」(23節)は、自制して生きることができること。
 「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(24節)から、聖霊の実が結ばれるのです。聖霊に導かれて生きる人とは、キリスト・イエスのものとなった人です。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)と既にパウロは語りました。十字架を仰ぐとき、キリストだけではなく、私の肉が、自己中心な古い自分が(ローマ6:6)十字架につけられたことを信じましょう。洗礼を受けたとは、古い自分がキリストと共に死んだということです(ローマ6章)。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。
 ですから「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)。ここで「前進する」と訳された動詞は、ムカデ競走のイメージだそうです。列を導く聖霊の両肩に手を置いて、後に続き、決して列から離れず、足並みをそろえて従って行く。聖霊は私たちを捕らえていてくださいます。私たちも日々聖霊に導かれ生きていきましょう。