1月16日(日) 降誕節第4主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編32篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第6章1~6節
説 教 「互いに重荷を担う」
賛 美 543
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
キリストによって私たちに与えられた自由は、愛によって互いに仕えるためのものです(ガラテヤ5:13より)。この愛は、人間から出てくるものではなく、聖霊によって注がれる神の愛です。「霊の結ぶ実は愛であり…」(ガラテヤ5:22)とあるとおり、聖霊の導きに従う時、私たちは愛に生かされるのです。この愛は、何よりもキリストの体であり、聖霊の宮である教会・信仰の共同体に見られるはずです。愛はどこに見えるのでしょうか。そのことをふまえて、本日与えられた御言葉を聞きましょう。
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」(3節)。私たちは、深く信頼していた人に裏切られた時は、心が深く傷つきます。欺きとは、それほどの大きな痛手を被ることです。ところがここでは、自分が自分を欺くというのです。「自分をひとかどのものだと思う人がいるなら…」という高慢の罪への警告です。この手紙を書いた使徒パウロは、コリントの教会へ「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」(コリント一3:18)と述べています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(コリント一8:1~2)。聖霊が注いでくださる愛は、私たちを信仰の自己吟味へと導きます。愛は「好き」という感情ではなく、意志や知性に働きかけます。ですから「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」(1節)、「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」(4節)と語られています。「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(6節)とあります。生きることそのものが苦しみ多く、重荷を負っていくようなものです。信仰者はそこにとどまらず、聖霊から愛を注がれていますから、信仰の自己吟味こそ引き受けるべき重荷ではないでしょうか。
主イエスの山上の説教の言葉も思い起こされます。「人を裁くな。・・・あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7:1,3)。以前読んだ本に、この御言葉を聞いた子どもが思わず笑い出した、とありました。主イエスのユーモアがあります。私たちも子どものように笑ったら、目の中の丸太は取り除かれるのかもしれません。
そのように神の目から見た自分に気づき、信仰の自己吟味をしていく私たちに「互いに重荷を担いなさい」(2節)と語られています。教会という信仰共同体において、愛は「互いに重荷を担う」ところに現れてくるのです。
それでは「互いに重荷を担う」とは具体的には何か、という問いがあると思います。そこで今日は、神学者ボンヘッファーの言葉を最後に紹介したいと思います。「聞くという奉仕」です。
“交わりの中で、ひとりがほかの人に対して負っている第一の奉仕は、〈その人の言葉に注意深く耳を傾ける〉ということにおいて成り立つ。神への愛は、わたしたちが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、わたしたちが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。神がわたしたちに、ただその言葉を与えて下さるだけでなく、わたしたちにその耳をも貸して下さるということは、わたしたちに対する神の愛である。だから、もしわたしたちが兄弟の言葉に傾聴することを学ぶなら、わたしたちが兄弟に対してすることは、神のわざである。”(「共に生きる生活」より)