1月23日(日) 降誕節第5主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   472
主の祈り
交読詩編  詩編19篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章15節
説  教  「今からは盗むな」
        〔十戒による説教:第8戒〕
賛  美   505
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「盗んではならない」(出エジプト20:15)。これを聞くと、私たちは窃盗のことだと思うのではないでしょうか。出エジプト記第21章16節には「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」とあります。この「誘拐する」は「盗む」と同じ動詞です。ですから「盗んではならない」には、人も含まれているのです。人を盗んでどうするのか。他の人に売る、あるいは、自分のもとに置く。どちらにしても、自分の利益のために、人を物のように扱うのです。人の自由を奪うのです。それは死に値する罪なのです。
 なぜでしょうか。十戒の前文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)と神の宣言があります。イスラエルの人々は、神によってエジプトの奴隷状態から解放され、自由な民とされました。人を盗むとは、その人の自由を奪うことですから、その人を解放し、自由にした神に背くことなのです。神の救いの業を無にすることです。ですから、それは死に値するほどの罪なのです。
 そうすると、人であっても物であっても、盗もうとする私たちの心が問われているといえます。「盗んではならない」とは道徳ではなくて、「わたしは主、あなたの神」と語り、わたしを救ってくださった生ける神の言葉です。信仰によらなければこの戒めに生きることはできないのです。
 主イエスは山上の説教でこのように語られました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)。私たちの父である神は、私たちに必要なものをご存じだから、その神に信頼して「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6:11)と祈りなさいと、主イエスは教えてくださいました。そこには、すべての必要を神が与えてくださるという信仰がなければなりません。自分の必要も神が与えてくださる。相手の必要も神が与えてくださる。ですから、自分の利益のために盗むとは、相手に与えられた神の恵みを奪うことであり、神の恵みに生かされることを信じない背きの罪なのです。
 マタイによる福音書第19章16節以下を読みます。一人の青年がイエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いました。イエスは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と言われました。これは順序が違いますが、十戒と、隣人愛の戒めです。イエスはこの人に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われると、青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからでした。
 私たちは豊かであれば、人の物を盗むことはない、この戒めに生きられる、と考えるのではないでしょうか。しかし、この金持ちの青年は、主イエスの鋭い問いかけによって、財産に固執して、戒めに生きられない自分を示されました。私たちが同じようにイエスに求められたら、何と答えるのでしょうか。
 「天に富を積む」とは、神の恵みによって生きるということでしょう。前述のように、神が必要なものをご存じで、与えてくださるという信仰に生きることです。
 「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(エフェソ4:28)。私たちは、盗まないだけではなく、分かち合って生きるように、そのようにして隣人への愛に生きるように招かれています。