2月6日(日) 降誕節第7主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   205
主の祈り
交読詩編  詩編126篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第6章6~10節
説  教  「霊に蒔く者に」
賛  美  444
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 信仰による義、キリストにある自由を得た私たちは、地上の信仰生活を聖霊に導かれて生きていきます。その具体的な歩みがガラテヤの信徒への手紙第6章に語られています。
 6節に「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」とあります。ここで「御言葉」と訳されたのは原語では「ロゴス」で、ヨハネ福音書の冒頭では「言(ことば)」と訳されています。「意志・心・愛」等にも訳せます。「持ち物」は直訳すると「良いもの」です。聖書において「良いもの」とは福音以外ではあり得ません。「分かち合いなさい」という言葉は「交わり」を意味します。従って6節が語ることは、信徒(御言葉を教えてもらう人)も教師(教えてくれる人)も、同じキリストの福音によって生き、生かされ、両者が正しく交わることこそ教会だと勧められているのです。それが、聖霊に導かれて生きる教会の姿です。
 前回のガラテヤの信徒への手紙の説教で、互いに重荷を担う、その具体的な姿の一つは「聞くという奉仕」である、とお伝えしました。聞くことは愛の業です。神の言葉を聞かない人が、どうして人の言葉を聞くことができるでしょうか。キリストの福音が語られ、聴かれることは、互いに重荷を負い合う業であり、そこにキリストの教会が存在するのです。福音を語る務めは重く尊いものです。その務めを尊重するからこそ教会は、御言葉を教えてくれる人を重んじ、持ち物を分かち合います。御言葉を共有する交わりが教会の基礎です。
 1月31日、今年度の埼玉地区講壇交換礼拝のため、上尾使徒教会へ出かけて参りました。上尾使徒教会では密を避けるために、午前中に二つの礼拝を行い、諸事情で礼拝に来られない人には毎週、週報と説教原稿を郵送しているそうです。牧師は金曜日までに説教原稿を作成します。来られた教会員で発送作業しているのを当日、拝見しました。ここにも神の言葉を共有し、分かち合う教会がありました。
 8節に「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」とあります。私たちは「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進」(ガラテヤ5:25)しており、「“霊”に導かれて生きているあなたがた」(ガラテヤ6:1。協会共同訳では「霊の人」)です。ですから私たちが「自分の肉に蒔く者」となるとは、本来あり得ないことなのです。「霊に蒔く」とは、すでに語られたように、互いに重荷を担うこと、自分の行いを吟味すること、自分の重荷を担うこと、キリストの福音を分かち合うことでしょう。
 「蒔く」とは農耕のイメージです。現代なら「投資」と言い換えられるかもしれません。株か何かに投資して資産を増やすことに一所懸命な人もいるかもしれません。最近、説教塾で植村正久先生の説教から学びました。「キリストを縮小するなかれ」という説教で、私たちは神の国に投資することを渋っていないか、と問われました。私たちは持てる物を、自分自身を、神の国にどれほど献げているのでしょうか。
 7節「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」とは、厳しい言葉であると同時に希望の言葉でもあります。霊に蒔く者には「永遠の命」が与えられると神は約束してくださっています。ですから「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」(9節)。神の約束は確かです。私たちは主イエスに愛されていますから、「今、時のある間」(10節)、聖霊に押し出されて、良き愛の業に励みます。