2月13日(日) 降誕節第8主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 409
主の祈り
交読詩編 詩編139:1~10
祈 祷
使徒信条
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙第6章11~15節
説 教 「新しく創造される」
賛 美 449
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
初代教会の時代は、手紙は羊皮紙に書かれており、それが朗読されました。使徒パウロは口述筆記させていたのですが、この手紙を終えるにあたり、自筆でこう書きました。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(11節)。これを聞いた教会の人々は、パウロが最後にこれだけは分かってほしいということを語るのだ、と思ったに違いありません。2つのことが語られています。12節と13節には人を誇ることが、14節と15節にはキリストを誇ることが語られています。この二つが鮮やかに対比されています。
ガラテヤの教会には問題がありました。イエスをキリストと信じて洗礼を受けたのに、キリストの救いでは不十分で、割礼を受けてなければ救われないと言って、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に割礼を強要していたのです。その人たちのことをパウロは「人から良く思われたがっている者たち」(12節)と言いました。パウロの反対者たちは、実は、人の目を気にしているに過ぎなかったのです。割礼を受けさせるもう一つの動機は、相手のためを思ってではなく、「ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくない」(12節)ためである、とパウロは鋭く批判しました。
今は信教の自由があり、教会は会堂や礼拝堂に十字架を掲げることができ、妨げられることなく礼拝ができます。十字架は教会のしるし、救いのしるしであり、私たちも十字架を美しいと思います。しかし初代教会の時代は、そうではありません。ユダヤ人にとっては「木にかけられる者は皆呪われている」(ガラテヤ3:13)ので、十字架にかけられたイエスをキリスト(救い主)だというイエスの弟子たちは、ユダヤ人から迫害されました。救われる前のパウロも教会を迫害しました。ローマ帝国の人々にとっても、十字架はローマに反逆した人が受ける見せしめの刑でしたから、忌み嫌われるものでした。
ガラテヤの教会の、パウロの反対者であるユダヤ人キリスト者たちは、異邦人キリスト者に割礼を受けさせることで、ユダヤ人からの迫害から逃れようとしていたと考えられます。異邦人キリスト者に割礼を受けさせることができれば、彼らも我々の仲間なのだと、ユダヤ人に対して誇ることができるからです(13節)。
使徒パウロは、前述のように、十字架がユダヤ人からもローマ帝国の人々からも忌み嫌われていることを承知していました。その上ではっきりと「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)と言いました。「このわたしには」とは非常に強い言い方です。なぜ十字架が誇りなのでしょうか。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」(14節)からです。世がキリストを十字架につけました。人の目には、ユダヤ当局の人々の企みによって、またローマ総督ピラトがその人々に押し切られることによって、イエスは十字架につけられました。実はそこに神の御計画がありました。パウロは「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)と語り、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(ガラテヤ5:24)と語りました。パウロは「私は十字架で世に対して死んだので、世は私に対して何の力も無い。私は世から自由であり、罪と死から解放されたのだ」と言っているのです。ですからこのキリストの十字架の救いには、割礼が有ろうが無かろうが、一切関係ありません。大切なのは、新しく創造されることです(16節)。私たちも、使徒パウロと同じように、キリストの十字架だけを誇りとして、新しく創造された者として生きるのです(コリント二5:17参照)。