2月20日(日) 降誕節第9主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   361
主の祈り
交読詩編  詩編103:1~13
祈  祷
使徒信条
聖  書  ガラテヤの信徒への手紙第6章16~18節
説  教  「イエスのスティグマ」
賛  美  301
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」(16節)。「このような原理」とはどのような原理でしょうか。それは、このガラテヤ書全体と言えるでしょうし、直前の箇所のとおり、主イエス・キリストの十字架以外に誇りはないこと、新しく創造されることでしょう。新しい創造とは、主イエスの復活の命に生かされることです。「原理」という言葉は、「定規」「物差し」という訳もあり、「法則」(口語訳)、「基準」(協会共同訳)という訳もあります。
 私は、昨年のクリスマスで、洗礼を受けて40年となりました。今年の3月末で、西川口教会の教師になって丸22年になります。教会生活は続けてきましたが、自分自身の信仰生活に、主イエス・キリストの救いというまっすぐな定規を当ててみたら、どうでしょうか。曲がりくねっているのではないかと思います。使徒パウロの言葉のとおり、自分は罪人の中の罪人だけれども、その自分が選ばれたのは、その罪を覆って余りある神の恵みが示されるためであった(テモテ一1:15~16より)と思っています。心の奥深くまで探られて、最近ようやく「罪が分からないという罪」が分かってきたと思っているのです。だからこそ、主イエス・キリストの十字架と復活の救いに依り頼むほかありません。
 「このような原理に従って生きていく人」の「生きていく」はガラテヤ書第5章25節「霊の導きに従ってまた前進しましょう」の「前進しましょう」と同じ言葉です。以前語ったとおり、ムカデ競走のイメージです。列を導く聖霊の両肩に手を置いて、後に続き、決して列から離れず、足並みをそろえて従って行く。私たちは聖霊に導かれ、キリストの救いから離れずに前進していく者たちです。パウロは「神のイスラエル」と呼びました。この手紙の宛先であるガラテヤ地方の諸教会には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がいました。ユダヤ人でも異邦人でも、キリストを信じて救われた者は神の子であり、信仰によるアブラハムの子孫であり、神の祝福の相続人です。神の平和(ヘブライ語で「シャーローム」。命が満ち満ちている状態)と憐れみ(ヘブライ語で「ヘセド」神の誠実)があるように、と平和の挨拶、主の祝福が告げられました。
 そのまま18節の祝福に続いても良かったのかも知れませんが、17節が、ガラテヤ書の味わい深いところだと思います。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(17節)。本日の説教題の「スティグマ」はギリシア語で、「焼き印」のことです。スティグマ(焼き印)は、奴隷や家畜に押されるものです。「イエスのスティグマ」ですから、パウロは、私はイエス・キリストのものである、その焼き印を身に受けているのだというのです。コリントの信徒への手紙二第11章23節以下を読むと、パウロが被った苦難のリストがあります(投獄、鞭打たれたこと、投石、難船など)。パウロの体には、傷跡がたくさんあったのかもしれません。それらを「イエスのスティグマ」と呼んだのかもしれません。私は、イエスのものになりきっているのだから、「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい」(17節)。パウロは数々の苦難をキリストのゆえに忍耐してきましたが、煩わされることは望んでいないのです。煩わされることは、福音宣教が妨害されることだからです。
 私たちには実際の焼き印はないでしょうが、洗礼を受けた者は主イエス・キリストの焼き印を身に受けていると言えるでしょう。私たちもまたイエス・キリストのものとなりきっているのです。お互いを煩わすことなく、キリストの祝福を受け、前進してまいりましょう。