2月27日(日) 降誕節第10主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   487
主の祈り
交読詩編  詩編12篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  出エジプト記第20章16節
説  教  「偽りの言葉を憎む」
        〔十戒による説教:第9戒〕
賛  美   377
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト20:16)とあるので裁判で証人として立つ場合かと思います。しかし十戒は、神の民としてふさわしく生きる道ですから、平たく言えば「嘘をついてはいけない」と言い換えられると思います。私たちはそう言われて育ってきましたが、学校や社会に出ていくようになると、本当のことを言ったら不利になる、また相手を怒らせることを経験しているではないでしょうか。周りの人たちを見れば、本当のことを言っていない人が多いと思います。「本当のことを言っていたら、やっていけない」と考えるかもしれません。「嘘も方便」と言われます。神が求めておられることと、この世で語られていることと、私たちはどちらに従うのでしょうか。
 主イエスがユダヤ当局に逮捕された時にペトロは逃げましたが、その後でイエスが連れて行かれた大祭司の屋敷まで来ました。けれどもそこで「あなたもイエスの仲間だろう」と言われた時「あの人を知らない」と偽りを言いました。イスカリオテのユダも、貧しい人々を心にかけているような発言をしましたが、実はそうではなく、会計係なのに中身をごまかしていたので、その言葉は偽りでした(ヨハネ12:5~6)。
 私たちはどうして嘘をつくのでしょうか。ペトロのように恐れのために、自己保身のために嘘をつきます。また、ユダのように、自分の利益のために、自分がよく見られるように、嘘をつきます。
 偽りを言うことについて、主イエスのまことに痛烈な批判の言葉があります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)。ヨハネ福音書第8章の文脈では、これは主イエスの言葉を受け入れないユダヤ人への言葉ですが、もし私が主イエスに同じように言われたら、彼らのようにイエスに怒りを感じるだろうと思います。彼らはイエスを殺そうとし、その本性を表してしまいました。さらに主イエスは「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」(ヨハネ8:47)とおっしゃいました。偽りを言うとは、神の真理をよりどころとしておらず、真理がその内になく、神に属していないことなのです。イエスの言葉を信じないならば、偽り者なのです。
 どのようにしたら、偽りではなく真実を語ることができるのでしょうか。使徒パウロがこう語っています。「わたしたち…が、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」(コリント二1:19~20)。イエス・キリストにおいて「然り」だけが実現しました。つまり、キリストだけが真実なお方であり、キリストだけが、神に属していなかった私たち人間を赦し、真実に生きる者にしてくださる方なのです。私たちを真実に生かすために、主イエスは命を献げて救いとなってくださったのです。
 救われた私たちはどのような言葉を語るのでしょうか。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」(エフェソ4:25)。キリストの体である教会の一部であるお互いにとって、偽りの言葉はふさわしくありません。「むしろ、愛に根ざして真理を語り」ます(エフェソ4:15)。キリストにどこまでも愛されて、赦されて、受け入れられていますから、その愛で隣人を赦し、執り成して、真理を語ります。