3月6日(日) 復活前第6主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   307
主の祈り
交読詩編  詩編118:19~29
祈  祷
使徒信条
聖  書  マルコによる福音書第11章1~11節
説  教  「主イエスを迎えよう」
賛  美   430
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 マルコによる福音書は全部で16章まであります。受難週の出来事はこの第11章から始まります。主イエスの地上のご生涯の終わりの1週間に、福音書の約3分の1を充てているわけです。それだけに、十字架に向かわれる最後の日々がどれだけ大切であったかと思われるのです。その最初が、エルサレムにお入りになる本日の聖書の箇所になります。
 主イエスと弟子たちがエルサレムに近づいたとき、イエスが弟子たちを使いに出して、子ろばを調達した記事が描かれています。現代の読者である私たちには、同じことが繰り返し述べられていて「くどい」と感じられるかもしれません。マルコには語る必要があったのでしょう。弟子たちが準備したのではなく、主イエスが用意周到に事を運ばれ、主イエスのお言葉どおりになったということを示します。「まだだれも乗ったことのない」とは「救い主だけをお乗せする」ということでしょう。
 こうして「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」(7~8節)。今でも外国の首相などが来日して飛行機から降りるとき絨毯が敷かれてその上を歩く姿を見ます。尊い人をお迎えするやり方です。主イエスは王のようにエルサレムにお入りになり、人々も迎えました。一方、勇ましい王のように馬にではなく、荷物を運ぶ家畜であるろばに、しかも子ろばに乗っての入城ですから、滑稽に見えたかもしれません。実はこれは、旧約聖書で約束された平和の王のようでした。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)。マルコ福音書記者も、そのことを思って書いたのではないでしょうか。神が遣わしてくださる平和の王の姿です。
 一方、人間が求める地上の王はどのようなものか、旧約聖書のサムエル記上第8章11節以下に書かれています。王は、息子たちを徴用し兵として戦地に送ります。娘たちも徴用されます。財産も食べ物も僕たちも王のものになり、「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(サムエル上8:17)。今の時代でも、制度としての王国でなくても、同じではないでしょうか。この世の権力や権威は人々を奴隷にし、戦争に巻き込んでいきます。地上の王を求める民の心を、主なる神は、はっきりと批判しています。「主はサムエルに言われた。『…彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ…」(サムエル上8:7)。主なる神を王とすることを捨てたイスラエルの民は、やがて王国の滅亡へと至ります。
 主イエスを喜び迎え、共に進んだ者たちは、詩編の言葉で歓呼の声を上げました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(9節。詩編118:25~26)。人々は、異邦人の支配を覆す地上の王としてイエスを迎えたのでしょうが、数日後には人々はイエスを「十字架につけろ」と叫んでしまいます。しかし、実は、まことに詩編の通り、主イエスは「主の名によって来られる方」であり、「我らの父ダビデの来たるべき国」(10節)つまり、神の国をもたらしてくださる救い主でありました。だからこそイエスはこの歓喜の賛美をお受けになられたのです。
 イエスはその後、神殿に赴かれました(11節)。そのことは、主イエスが来られたのがまことの礼拝の回復のためであったことを示しています。私たちがまことに主なる神を王として迎え、神を礼拝する者となるために、主イエスは来られたのです。