3月13日(日) 復活前第5主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   425
主の祈り
交読詩編  詩編62篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  マルコによる福音書第14章1~11節
説  教  「主に心を注ぎ出して」
賛  美   567
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 主イエスは「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(9節)とおっしゃいました。「世界中どこでも」ですから、日本でも、西川口教会でも語り伝えられるわけです。それほどまでの広がりを持つ約束です。主イエスが「記念として語り伝えられる」と語られた意味を、私たちはどれほど分かっているのでしょうか。そのことを心に留めつつ、この出来事に耳を傾けたいと思います。
 事が起こったのは「過越祭と除酵祭の二日前」(1節)でした。受難週で言えば水曜日です。翌日は最後の晩餐(主の食卓)があり、2日後の金曜日に主イエスは十字架にかけられます。主イエスの死は迫っていました。祭司長たちや律法学者たちは、主イエスを憎み、殺そうと企んでいましたが、民衆を恐れて「祭りの間はやめておこう」(2節)と言っていました。しかし彼らの思いとは異なり、主イエスは過越祭のときに十字架にかけられました。十字架の出来事は、人の思いではなく神の御意志だからです。
 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて」(3節)と、マルコ福音書記者は書いておりますが、これは当然のことではありません。律法によれば、重い皮膚病の人は、自ら「私は重い皮膚病で汚れています」と言い、共同体の外で生きなければなりませんでした(レビ13:45~46)。社会的に排除されていたのです。そのような人のところを主イエスは訪れたのです。主イエスは重い皮膚病の人だけでなく、徴税人も、つまり人々が「罪人」とレッテルを貼っていた人々を訪れ、食事を共にし、神の国の福音を告げてくださいました。シモンはどんなにうれしかったことでしょうか。私たちは、自分たちがこのシモンと同じような罪人だと思っているかどうか、主イエスが訪問してくださることを喜びとしているかどうか、問われていると思います。
 主イエスがシモンの家で食事の席に着いておられたとき、思いがけない出来事が起こりました。「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけ」(3節)ました。パレスチナは乾燥した地域です。当時、家に入って足をきれいにするときに香油を使うことがあったので、香油を持って来ることは特別なことではありません。しかしこの女性は、主イエスの「頭に」香油を注ぎました。しかも壺を壊したのですから、もう二度と使えません。つまり、ただ主イエスのためだけにこの香油を献げたのです。そばにいた人が「この香油は三百デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことができた」(5節)と言いました。当時1デナリオンが1日分の労働の給料でしたから、彼女は、10カ月以上の給料ほどの香油を、一瞬で、すべて主イエス献げたということです。そこにいた人々は皆、本当に驚いたに違いありません。
 そばにいた人が「無駄遣いだ!」と彼女を厳しくとがめましたが、主イエスは彼女の行いを「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われ、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)とまで言ってくださいました。私たちは、彼女の行いに主イエスに対する彼女の大きな愛を感じます。彼女は、主イエスを愛していたので、師であるイエスに死の危険が近いことを感じとることができたのでしょう。彼女が香油を主イエスに惜しまず注ぐことができたのは、主イエスの「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:47)という言葉から理解できるでしょう。主イエスに対する私たちの愛が問われています。