3月20日(日) 復活前第4主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   56
主の祈り
交読詩編  詩編41篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  ルカによる福音書第22章14~23節
説  教  「新しい契約」
賛  美   390
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 今、教会で行っている聖餐は、主イエスがお定めになりました。新約聖書に主の晩餐(聖餐)の記事はいくつかありますが、ルカ福音書だけが「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(15節)という主イエスの思いを書き記しています。聖餐が、主イエスが切に願って定められたものであることを、私たちはどれほどわきまえていたかと思います。「苦しみ」とは「十字架の死」です。
 「過越の食事」とは、神の民であるイスラエルの人々が、神によってエジプトから脱出した救いの出来事を記念する過越祭の食事です。エジプトで奴隷であったイスラエルの民のうめきに耳を傾けてくださった神は、モーセを通して民を救い出されます。神はエジプトの初子を撃つとお決めになりました。初子を撃つ御使いは、小羊の血を門柱と鴨居に塗ってある家は過ぎ越すとイスラエルの人々に伝えました。その通り、エジプトの王ファラオの子もエジプト中の初子も家畜の初子も撃たれましたが、イスラエルの初子は撃たれませんでした。ファラオはイスラエルの民に出て行くように言い、民はエジプトを脱出することができました。この神の救いを記念する祭りが過越祭です。
 過越の食事において新しい契約である主の晩餐が定められました。それは、主イエスがこれから受ける苦しみの十字架の出来事の意味を、この聖餐によって明らかにするためです。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(19節)。「体」とは自分自身です。主イエスの体は、十字架の上で裂かれて「あなたがたのために」つまり、私たちのために与えられるのです。ご自身を私たちにお与えになるために、主イエスは十字架で死なれます。「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(20節)。私たちのために主イエスの血が流されるのです。こうして、主イエス自らが、十字架の出来事を解釈し、弟子たちに示されました。そうでなければ、どうして十字架の出来事の意味を私たちが知ることができるでしょう。
 コリントの信徒への手紙一第11章23節以下にも主の晩餐の記事があります。使徒パウロは「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」(コリント一11:26)とはっきり書いています。主の食卓に与る者は、主イエスの十字架の死が何のためであったかを常に新しく知らされるのです。マタイ福音書には「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:28)とあります。すべての人に罪の赦しを得させるために、主イエスは血を流されるのです。
 だからこそ主イエスは「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」(21節)と言われました。その食卓にはイエスを引き渡す機会を狙っているユダがいました。ユダだけが裏切者で罪人でしょうか。他の弟子たちも、この後すぐ主イエスを捨てて逃げてしまいました。罪人が招かれている罪人のための食卓なのです。その罪は主イエスによって赦されるほかはないのです。ただ主イエスによって、私たちは罪と死からの自由、脱出、救いが与えられるのです。
 ルカ福音書24章には、復活の主イエスが食卓でパンを取り、祝福して裂き、お渡しになったとき、弟子たちが主イエスだと分かったという記事があります(ルカ24:30~31)。主の晩餐は、復活の主イエス・キリストと共にする食事でもあるのです。