3月27日(日) 復活前第3主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   499
主の祈り
交読詩編  詩編131篇
祈  祷
使徒信条
聖  書  マルコによる福音書第14章32~42節
説  教  「目覚めて祈れ」
賛  美   440
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 説教塾の学びで、以前、このような問いかけがありました。「主イエスは弟子たちに、十字架につけられて、三日目に復活することを予告しておられた。主イエスは復活すると分かっておられたのに、どうしてこんなに苦しまれたのか、子供の時にそう思っていた。未熟な考えだったが、説教の聞き手には同様に思う人があるかもしれない。どのように語るのですか」と。
 世界や日本の歴史の中でも、またキリスト者の中にも、死を恐れず、堂々と死んでいった人はいくらでもいます。私は牧師として、死に向かっていく何人もの方たちに寄り添ってきました。それぞれ最期の時の姿を思い出します。苦しんだ人、静かだった人、悔い改めの祈りをした人などがおりました。
 ゲツセマネの園で、主イエスは非常に苦しんでおられます。今日の箇所に「十字架」という言葉はありませんが、マルコ福音書全体から、この苦しみは主イエスの十字架の死の苦しみを先取りしておられると思います。十字架上では肉体も極みまで痛みましたが、ここではそのような肉体の苦しみはありません。しかし、主イエスはひどく恐れてもだえ始め(33節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)、つまり悲しみのあまり死にそうだ、と語られました。主イエスは死を前に非常な苦しみを味わわれたのです。私たちがマルコ福音書から知らされているのは、主イエスは全ての人を救うために十字架におかかりになることです(マルコ10:45参照)。ですから主イエスが一身に負われた苦しみは、本来私たちが負うべき苦しみなのです。私たちの代わりに、主イエスが苦しんでおられるのです。主イエスが負われたのは、私たちの背きに対する神の聖なる怒りであり、神の正しい裁きでしょう。私たちは罪のために、それがどんなに恐ろしいものなのか、理解できないのです。罪のない主イエスだからこそ、神の聖なる怒りがどれほどのものかを知り、苦しまれました。
 「少し進んで行って地面にひれ伏し」(35節)とあります。当時ユダヤ人は立って祈りました。主イエスはここで立っていられないほど苦しんでおられたのです。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと」(35節)祈り、さらに「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈られました。主イエスは易々と十字架に向かわれたのではありませんでした。ついには「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と祈られ、父なる神の御意志にご自分を従わせました。祈りとは、自分の願いを押し通すことではありません。神の御意志に自分自身を従わせることです。
 そのようなせめぎ合いの中で、主イエスは神を「アッバ、父よ」と呼んでおられます。当時ユダヤ人が神を「アッバ」と呼ぶことは考えられないことでした。子が父親を親しく呼ぶように、主イエスは神を呼ばれました。
 主イエスは、弟子たちと共に、更には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを近くに伴われ、「目を覚ましていなさい」(34節)と、共に祈るようお求めになりました。しかし彼らは、目の前で師である主イエスが非常に苦しんでいるのに、しかも何度も注意されたのに、目を覚ましていることができませんでした。それは主に対する背きでしょう。主イエスは弟子たちをお責めになりませんでした(38節)。その弟子たちの罪も主イエスは負われ、ただ独り、生ける神の前で祈られました。
 この主イエスの祈りが、私たちの祈りの基本・原型となりました。この祈りに倣う時、私たちは目を覚ましていることができます。祈り終えたとき、「立て、行こう」(42節)と立ち上がることができるのです。