4月 3日(日) 復活前第2主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 288
主の祈り
交読詩編 詩編65:1~9
祈 祷
使徒信条
聖 書 マルコによる福音書第15章1~15節
説 教 「主の沈黙」
賛 美 522
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
主イエスはユダヤの最高法院で裁かれ(マルコ14:53以下)、ローマ総督であるピラトからも裁かれました。どちらの裁判においても、主イエスは黙っておられ、一切の弁明をなさいませんでした。「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(マルコ14:61)とあり、また「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」(5節)とあります。
「弁明」を平たく言えば「言い訳」でしょうか。以前ある方から「言い訳は恥の上塗り」という言葉を自戒としていると伺い、私も倣っています。にもかかわらず言い訳をする自分なのです。もちろん裁判の席で弁明をしてはいけないという意味ではありません。しかし言い訳をしたことがない人はいるでしょうか。
主イエスは、一切弁明をなさらず、沈黙し続けておられました。しかし、沈黙の中にも語られたお言葉があります。最高法院での裁きの場で大祭司から「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問された時、イエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)とお応えになり、ご自分がメシア(キリスト)であり、世を裁くために来られると宣言されました。
ピラトの裁きにおいては、「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられました(2節)。これは遠まわしに「そうである」ということです。ピラトは、ローマ帝国に抵抗する者かどうか、政治的な意味で尋問しているのですが、主イエスは、神から遣わされた者として、神によって神の民の王となると、応えておられます。
私たちは聖書を読むと、聖書の神が人間に対して弁明をするお方ではないこと、神は人間がすべてを理解できるまで説明してからことをなす方ではないことを知っています。ですから、主イエスの沈黙は、それ以上何も言うことがなかったということかもしれません。ゲツセマネの園の苦闘の祈りが終わって、イエスは「立て、行こう」(マタイ14:42)と言われました。十字架へまっすぐ行かれるのです。なすべきことはそれだけなのです。
この主イエスの姿に、イザヤ書の苦難の僕を思い起こします。「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」(イザヤ53:7)。この預言が成就したと、マルコ福音書記者は信じたのでしょう。
「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(10節)とあります。ピラトは、イエスには何の罪もないこと、ユダヤ当局者たちが彼をねたんでこうしているのだと見抜きました。私たちは、人と自分を比べてねたんだり、うらやんだり、人の不幸を知ったら、安心したりもします。ねたみから自由な人がいるでしょうか。誰もが持っているねたみが、イエスを十字架へ追いやったと聖書は記しているのです。一方、ピラトはイエスに罪がないと分かり、イエスを釈放しようと努めましたが、祭司長たちに扇動された群衆の「十字架につけろ」という声に負けて、イエスを十字架につけることに決めました。祭司長たちも、ピラトも私たち人間を代表しているのです。
主イエスが十字架につけられることになり、何が起こったのでしょう。バラバという囚人がイエスの代わりに恩赦によって、自由にされました。この人は人殺しで暴徒です。罪人です。それなのに赦されたのです。実は、バラバも私たち人間を代表しています。罪あるままで、主イエスのおかげで赦され、自由にされたバラバは、私たちなのです。こうして主イエスが沈黙している中にも、神の救いの業は一つひとつ進んでいきました。