4月10日(日) 復活前第1主日・棕梠の主日
礼拝順序

黙  祷
賛  美   313
主の祈り
交読詩編  詩編22:2~6
祈  祷
使徒信条
聖  書  マルコによる福音書第15章33~39節
説  教  「ここに愛がある」
賛  美   311
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 日本語には「神も仏もあるものか」という表現があります。耐え難い苦しみや困難に遭って、救いがないと思われるようなとき、人はこう嘆くのです。大きな苦しみを負う人に、私たちは寄り添いたいと思いますが、「神も仏もない」と言っているその人は、その時、神も仏も呼ぶことを止めているのではないでしょうか。
 「なぜわたしをお見捨てになった」という主イエスの言葉は、絶望の言葉、恨みごとのようにも聞こえるかもしれません。しかし主イエスは、神を呼ぶことをやめてはおりません。
 主イエスは、私たち罪ある人間のために、身代わりとなって、罪の裁きを受けられた、それが十字架の出来事の意味であると、教会は信じています。本来、私たちが神の聖なる怒り、神の裁きを受けるはずだったのです。主イエスは十字架で死なれましたが、復活し、今も生きておられると教会は信じています。だから、私たちは十字架の出来事を直視できますし、その意味を知らされています。同時に、私たちは罪があるために、神の聖なる怒りがどれほどのものなのか、本当には分からないのです。ただ、罪のない主イエスだけが、聖なる神の裁きを一身に受けられ、その厳しさを味わわれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、まことに神から見捨てられるところに身を置かれた主イエスの心からの叫びでした。神の裁きから逃げず、神の裁きに抵抗もせず、神の裁きに全く服したからこそ、こう叫ばれたのです。詩編第22篇を読みますと、神への信頼と「神に捨てられた」という嘆きと両方で織り成されている信仰の言葉であると分かります。どちらもあるのです。十字架の主イエスの言葉も同じです。
 主イエスは、私たちの救い主であると同時に、私たち人間が神の前にどのように生きるかというお手本でもあります。主イエスの苦難とは比較になりませんが、私たちも「なぜ、こんなことが…」と思わずにいられない苦しみに遭うことがあります。そんな時、十字架の主イエスと同じように祈ってよいのです。「神様、なぜ…」と祈れるのです。同時に、矛盾しているようですが、神の前に安心して、神に訴える祈りができるのです。主イエスがおられるので、私たちは神に見捨てられることは決してないのです。
 「イエスは大声を出して息を引き取られた」(37節)。主イエスが死なれた時、何が起こったのでしょうか。まず「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)。神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕が、「上から下」へ、神の御手によって裂けました。これは神殿が崩れ落ちたと言っていいほどの出来事です。至聖所は、年に一度、身を清めた大祭司だけが入れるところでした。その垂れ幕が裂かれたとは、私たちが神に近づくことができるようになったということです。こうして礼拝ができるのも、私たちが祈れるのも、このことによるのです。
 もう一つは、百人隊長が「この人は神の子だった」と信仰の告白をしたことです(39節)。救いから遠いと思われていた異邦人が、主イエスを十字架刑にしたローマ帝国に属する一将校が、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」、十字架のイエスの内に神を見出すことができました。キリストの証人とされました。この人自身、十字架の主イエスと出会う前は、まさか自分が信仰を持つとは考えてもいなかったでしょう。神は救いから遠いと思われる人を救ってくださいます。愚かな者、取るに足らない者をあえて救ってくださるのです。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネ一4:10)。