4月17日(日) 復活節第1主日・復活日
イースター礼拝順序
黙 祷
賛 美 333
主の祈り
交読詩編 詩編133篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 マルコによる福音書第16章1~8節
説 教 「イエスは復活された」
賛 美 325
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
本日の聖書箇所は、最初のイースターの出来事です。マルコ福音書の第16章9節以降は、後から加えられたと考えられています。つまりマルコ福音書は、第16章8節の「恐ろしかったからである」で終わっているのです。今日は復活日。「イースターおめでとうございます」と挨拶を交わしますが、この最初の復活の出来事の恐ろしさを私たちは知っているでしょうか。
先週の金曜日、他教会員の信仰の友が突然召されました。昨日の土曜日にご家族からお電話があり、思いがけない知らせに驚きました。また、末期がんの中で療養している信仰の友が力づけられると思い、先週、加藤常昭先生の番組をお連れ合い様にメールで連絡しましたら、「体力が落ちて、メールも看護師さんに読んでもらっています。お気持ちだけ受け取ります」と返信をいただき、とても厳しい思いになりました。
私たちは、弱っていくこと、あるいは家族の死、友の死を経験します。そのたびに命の重さ、死の厳しさを感じます。本日の聖書箇所には、主イエスのお墓に向かう女性の弟子たちが登場しますが、師であるイエスが十字架にかけられて死んでしまったとは、どんなに厳しいことであったでしょう。
そんな中でも彼女たちは、イエスのお体に香油を塗って差し上げたいとの思いで、週の初めの日の朝まだ早いうちに、墓に向かいました。途中、彼女たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話していました(3節)。その石は彼女たちの力では動かせないほど大きかったからです。
ところが、予期せぬことが起こっていました。石は既にわきに転がしてありました(4節)。さらに、その墓の中には、若者が座っていたのです。婦人たちはひどく驚いてしまいました。私たちは読者の立場で「この若者は神の御使いだ」と思いますが、もし彼女たちの立場であったら、イエスの墓の中に若者がなぜ座っているのか、と驚くのではないでしょうか。さらに予期せぬ出来事が続きます。この若者が語った言葉は理解を超えていました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)。神の言葉のような言葉が墓の中に響きました。さらに「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」と、彼女たちがなすべきことを語りました(7節)。しかし「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。彼女たちは目の前に起こったことを受けとめきれません。平常ではいられません。それほどまでに恐ろしかったのです。しかし、マルコ福音書がこのように書かれたのは、やがて彼女たちも主イエスの復活を確信できたからでしょう。
主イエスのお体が収められた墓の中で、神の言葉が響きました。墓の中とは、必ず死ぬことになっている私たち人間を示しています。その死のただ中に神の救いがもたらされたのです。死なないのではなく、必ず生きることになる死を主イエスは十字架で死なれ、神によって復活させられました。主イエスを信じる私たちも死なないのではなく、主イエスと同様に、必ず生きることになる死を通って、神により復活させられるのです。
復活の主イエスは先にガリラヤへ行かれ、弟子たちを待っていてくださいます。読者である私たちはマルコ福音書の冒頭に戻らされ、ガリラヤで宣教を始められた主イエスのお言葉を、改めて復活の主イエスの声として聞くのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。