4月24日(日) 復活節第2主日
礼拝順序
黙 祷
賛 美 328
主の祈り
交読詩編 詩編23篇
祈 祷
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書第20章11~18節
説 教 「主の声を知っている」
賛 美 326
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
先週と本日の朝、NHKのラジオ番組「宗教の時間」に加藤常昭先生が出演されました。先週の番組の終わりでは、太平洋戦争が終わった翌年のイースター野外礼拝のことをお話しされました。ヨハネ福音書第20章より、加藤先生は、主イエスが「マリア」とその名を呼ばれたように(16節)、ご自分にも主イエスは「常昭よ」と呼んでくださったと語られました。私たちは皆一人ひとり、復活の主イエスに名を呼ばれているのです。
マグダラのマリアは、復活された主イエスに会いに行ったのではありません。主イエスの弟子たちはだれも復活を信じていませんでした。マリアはイエスのお体を思って墓に行ったのでしょう。私たちも、亡き家族の遺骨が墓に納められていることに何か安心感があるのではないでしょうか。ところが、墓の石は取りのけられていて、イエスのお体はありませんでした。西川口教会には教会墓地がありますが、もしその墓があばかれたとしたらとんでもないことです。墓があばかれイエスのお体がなかったことは、マリアには受け止め切れず、絶望的な思いとなったでしょう。彼女はただ泣いていることしかできませんでした。
そんなマリアに、最初は神の使いが、次いで復活された主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と声をかけました。マリアは悲しみでいっぱいのままでした。復活されたイエスが「マリア」と言われると、マリアは振り向いて「ラボニ」(私の先生)と言いました(16節)。マリアの心は一瞬にして変えられました。主イエスが生きておられると認めることができました。
ヨハネ福音書の第10章には、羊飼いと羊のたとえが出てきます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。…羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3~4)。さらに主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。…わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:11、14)。主イエスがマリアの名を呼ばれ、私たち一人ひとりの名を呼んでくださる。私たちは主イエスにとってかけがえのない羊なのです(ヨハネ10:28参照)。
マリアは主イエスから自分の名を呼ばれる前に、イエスを見て声を聞きましたが、その人を園丁だと思い(15節)、イエスだと分かりませんでした。私たちの体の目と耳でイエスが生きておられることが分かるのではありません。主イエスに名を呼ばれて初めて、心の耳が開かれてイエスの声だと分かり、心の目が開かれてイエスが生きておられると信じることができるのです。
主イエスの次のお言葉から、マリアの信仰はまだ十分ではないことが分かります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。恐らくマリアは今まで通りのイエスとの関係が続くと考えたのでしょう。主イエスはマリアを戒められました。主イエスはこれから父なる神のもとへ上られるのです。マリアが願い求めるイエスではないのです。神の救いの出来事は新しい段階へと進んでいます。マリアはそれを知らなくてはなりません。
主イエスはマリアに使命を与えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ヨハネ福音書では、弟子たちが「兄弟たち」と呼ばれるのはここが初めてです。弟子たちは主イエスの兄弟姉妹であり、神の子たちなのです。主イエスの復活によって、私たちは神の子として、キリストの体を神殿とする神の家(ヨハネ2:19~22参照)、すなわち教会に集められて、神を礼拝して生きる一つの群れとされるのです(ヨハネ10:16)。